02 2017

実相の話

押井監督と舞踏の話をした時の、彼の発言で印象深く消えない言葉がある。
それは、
「最上和子の舞踏は実相に関わるものであって、表現ではない」という言葉だ。
このことは私は自分でよくわかっていた。
自分ではわかっていることを、誰か他の人に、その人の言葉で語って欲しかったのだと気がついた。
自分以外の人からそれを言って欲しかった。

その実相と表現を結びつけるために、猛烈に苦しんできたのだ。
それがどれほど困難なことか、本気で生と表現に取り組んできた人にしか、わかるまい。
最上さんは難解だからもっと世間に妥協しろとか、矛盾したことを求めているとか、
せいぜいがそのような言い方をされるのがオチだった。
そのような言葉をいやというほど聞かされてきた。
そのたびにどれほどガックリ来たか知れない。
あんたの言うことなどとっくに承知しているよ、
でも私はそれをやりたい、それにつかまっちゃったんだよ、
と内心叫んでいた。

私のしていることが実相に関わることだと、あっさりと的確に語った者は今までひとりもいない。
みんな本質のまわりを、まどろっこしくぐるぐる回っているような言い方しかしなかった。
実はシンプルなことなんだ。難解とか、そういうことじゃない。
あまりにも基本であるために見えにくくなっているのだ。
「実相」、この言葉はそのものズバリの強度を持っている。
実相があって表現がある。そのことをおさえていないと言えない言葉だ。
表現というものをふわふわとやっている者には、実相と表現の区別なんてできない。
大半の人には、はじめから表現があり、各ジャンルがすでにある。
はじめから絵画があり、はじめから音楽があり、はじめから文学があり、はじめから演劇がある。
それ以前の実相とは地面の下にあって見えないから、
それを見るためには地面を剥がさなくちゃならない。

実相にかかわるのは昔だったら宗教家とか、今なら哲学者・思想家などだろう。
私の印象では、実相にかかわる者は表現には関わらないし、
表現にかかわる者は実相にはかかわらない。
そして実相といってもたいていの場合は思弁に終始する。

かなり昔のある時期から、私はどのジャンルの表現にも、その大半のものに感動がなくなった。
そのときは自分が無感覚な鈍い人間になったのかと思った。
それとも傲慢なのかと。
今にして思えば、あらゆる表現ジャンルの大半が、
この実相に全く触れていないことから来る、無感動だったのだ。
はじめから舞台表現があると思い込み、全くそれを疑っていない演劇を見てはしらけていた。

今わたしは公演に向けて、この実相と表現をどう繋げるのか、苦闘している。
こういうことには答えはないので、問題が解決することはないだろう。
いざ公演をするとなれば、お金をとる以上は、最低限見せられるものにしなくてはならない。
そして実相を失うわけにはいかない。
しかも公演に向けての雑用だってある。
お客さんに失礼がないように、いつも網の目のように気を使っている。
衣装も小道具も自分でつくらなくてはならない。
真面目に考えていたら身が持たない。

正直に言って、現在の大半の表現なるものに退屈している。
でもそれを口にすることは許されない、というか傲慢にしか聞こえないだろう。
自分に何ができるか、たぶんん大したことはできない。
だって解決できない問題をかかえているんだぜ。
「大きなテーマを抱えている表現者は、ときとして才能がないように見えるものだ」と、
ニーチェが言っているとか。
なぜなら問題が大きい(深い)から、問題提起するのもやっと、のような状況になり、
魅力的な形を作るのには程遠くなるからだ。
道の途中どころか、入り口を示すのも容易でない。
下手すると出来そこないの演劇にしかすぎなくなる。

しかしこんにち、この「実相」のないところで表現することに、どれほどの意味があるだろうか。
すぐれた作品は必ず、この実相と臍の緒でつながっている。
そして現代において、実相とつながるためには身体ははずせないのだ、とわたしは思っている。

声は第一の身体だ。と先日そんなことを思った。
その意味では身体は第一ですらない。
それはゼロ地点だ。
実相そのものだ。
実相とは何もない状態であり、すべてである状態だ。
それこそが身体だ。
しかも芸能においては、それは思弁ではなく具体的現実でなくてはならない。
これがまた想像を絶する困難な作業なのだ。
具体的マテリアルこそ最大の困難だ。と思弁家に言いたい。

そのために今私は厳しい日々を送っているのであります。
時折、自分が何をしているのかわからなくなる。
苦しいのか、いい加減なのか、怠けているのか、努力しているのかいないのか、
皆目わからない日々なのです。
28 2017

公演会場のこと。

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先日、公演会場の下見に行き、写真撮影もして来ました。

踊りは場所で6〜7割くらいが決まってしまいます。
踊りよりも先に場所の力が必要なんです。
私は近代的な箱型の劇場が苦手で、
あのように味気ない場所では、踊る意欲もなくなりますし、
私のしているようなタイプの踊りは、半ば以上は命を失ってしまいます。

だから公演をするとなると、まず場所探しから始まり、これが難題なのです。
今回、縁あってこのような場所と出会い、そこから公演の可能性が生まれたわけです。

川崎・蒲田・大森、あたりは京浜工業地帯として町工場のメッカでした。
今でもたくさんの町工場があり、すぐれた職人技術あることで有名です。
残念ながら閉鎖を余儀なくされた工場も多く、この南製作所もその一つです。
その工場跡をアートの拠点として活用したいという、持ち主の情熱に支えられた、
私たちのような貧乏表現者にはありがたい場所です。
機械油の臭い、ゴツゴツした床や、時間の降り積もったディテール。
天井など、どんなアートにも作れない、なんとも言えない表情があります。
職人さん達の佇まいが、まだ生きて残っているようでした。

この空間に支えられたい、この空間に命を吹き込みたい。
そんな気持で下見を終えました。
この場所で都市の地霊を呼び出す。
それが実現できるように、稽古がんばりまっす^^

(撮影 LINA)



10 2017

11月5日公演のお知らせ

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公演はまだかなり先ではあるけど、チラシが出来たのでお披露目します。

もう二度と公演することはないだろうと思ってきた私の、数年ぶりの公演です。
私のソロもありますが、稽古場の生徒さんも踊ります。

私たちは舞台表現に特化したプロ集団ではなく、その意味では素人集団です。
その芸能の花は、なんの前提もないところに咲く野生の花です。
予算もないので、このチラシも自分たちによる手作りです。
公演当日、果たして何ができるのか、現在苦闘しています(笑)

場所は蒲田の町工場跡で照明設備もなく自然光で踊ります。
私は舞台照明で劇的に演出するのは、あまり好きではないのです。
何よりも「場を立ち上げる」ことをめざしています。

不便な場所でもあり恐縮なのですが、
わざわざお出でくださる方々を、一同お待ちしております。

小さな空間で座席数に限りがありますので、予約を入れてお出でください。
満杯の場合は入場をお断りすることがありますので、ご了承ください。


予約受付はこちら一本のみとなっております。
どうぞよろしくお願いいたします。
 
  → mogami20171105@gmail.com


26 2017

暴力シーン・原罪など

映画は、ありとあらゆることをしてきたなと思う。
時代劇あり、SFあり、ファンタジーあり、メロドラマあり、西部劇あり、ポルノあり、
海洋物あり、戦争物あり、動物モノあり、ミステリあり、文芸物あり、刑事物あり ・・・
映画は歴史は浅いけど、短期間に一挙に花ひらいた感ある。

私には理解できない、映画の、ある側面。
それは暴力シーンだ。
私には暴力衝動はない。
自分で気がついていないだけなのか、それはわからないけど。
小説や絵画や音楽や、その他のジャンルと較べると、映画の中で、暴力は一気に噴出した気がする。

先日TVでたまたま北野監督のアウトレイジを見て、いろんなことを思った。
映画じたいはとても面白くて、たいしたものだと思いつつ見ていたけど、
暴力シーンになると、思わず目をつむってしまった。
だって、あまりにも凄まじいんだよ。残酷で。
まあほとんどが暴力シーンなので困っちゃったんだけど。
よくもまあ、あんなに次々と暴力のバリエーションを思いつくものだなぁ
考えてみると、暴力シーンを撮るには、
どうやって人を殺そうかと、あの手この手を考えるわけで、それって凄まじいよね。
そんなことに人が腐心している光景は。
実際の現実では、ちょっと怪我して血が流れても大騒ぎする男性が、
表現世界では、これでもかと血を吹き飛ばすんだから。

暴力シーンが悪いとかそういうことではなく、
この表現欲ってなんなのか、どこから来るのか、と考えてしまった。

身体をやっている自分の立場に引き寄せすぎかもしれないけど、
その暴力表現に対する果てしない欲望が、
「身体がない」ことへの苛立ちのように、私には感じられてしまった。
「俺には身体がない、なんとかしてくれ〜 ! !」という叫び。
それだけが理由ということはないかもしれないけど、確実にそれはあると思う。
身体がある人が暴力を欲するとは考えにくい。
女性には暴力衝動が少ないのはそのせいか。
最近は女性も男を殴ったりするから、女性も身体がなくなってきているのかな。

アジア圏よりも欧米のほうが、暴力を好む傾向があるという印象。
アメリカ映画の暴力シーンとか、身体破損のリアル描写とか、執念のようなものを感じる。
何もこんなにまでリアルにしつこく描くことないだろうと思う。やりすぎ。
それって、身体を失っている者たちほど暴力を欲する、ってことなのか。

人類が身体を失ってきた歴史って、すごく長いから、
身体のない苛立ちは、いつのまにか、それこそ身体に蓄積されている。
頭や心はそれを意識していなくても、身体はその喪失を忘れない。

・・と、暴力シーンを見ていて、そういうことを感じた。
これは表現としての暴力だけでなく、現実に暴力を振るうことも同じではないか。
身体のない者は苛立ちやすいし、短絡的だ。

ついでに、人間の原罪意識についても何かを感じた。
人間の原罪意識ってどのようにして形成されたのだろうか。
キリスト教に顕著なのはなぜなのだろう。

私は、人類のしてきた最大の罪は、動植物の虐待だと思っている。
生きるために必要だから動物を殺していた頃でも、罪の意識はおそらくあった。
だから、動物を殺してそれを食べる時には儀式が必要だったのだ。
でも時代が下るにつれ、食べる必要をはるかに越えて、人は動物を殺し続けた。
毛皮を取ったり、単なる娯楽のための狩りをしたり、その他のさまざまな目的で。
森を切り崩して木を殺し、動物たちの住処を奪ってきた。
しかも贖罪と感謝と畏敬の儀式をはしょりつづけて、今やただの殺人鬼みたいになってる。

動物や植物を殺しつづけた時の、殺した側の(心ではなく)身体の受けたダメージ。
殺した者がそれを意識していなくても、身体はダメージを受けてきたと思う。
なぜなら身体は外界とじかに繋がっていて、
他者が傷つけば自分も傷つくようになっているからだ。
他者が「痛い」ときは必ず自分も「痛い」
それはヒューマニズムなどではなく、物理法則のようなものなのだ。
宇宙原理のようなものなのだ。
すべてはめぐりめぐって繋がっている。

その、身体の受けたダメージが蓄積されて。人間の原罪意識を作ったのではないか。
それは観念ではなく物理だ。モノとしての蓄積なのだ。
と、私には思えるのだ。
人間は「なにか自分はやましいことをしてきた」という漠たる思いをかかえている。
そしてその原罪意識をチャラにするために、宗教を必要としてきたとしたら、
ずいぶんとややこしいカラクリを、人類は作ってきたものだ。
04 2017

死と身体

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今さら言うまでもないことだろうけど、
身体と関わることは死とかかわることだ。
人類は(特に欧米は)なぜ身体を排除してきたか。
それは、身体は死を思わせるからだろう。
生の礼賛は死の遺棄とセットになっている。
その欧米思想で全地球が覆われたかに見えるこんにち、
人は若さを称揚し老いを遺棄する。
資本主義の狂ったような生産力もまたそれに通底している気がする。
死を恐れるかのように果てしなく生産し続ける。

一般的に言って、
東洋・アジアの思想では、あるいはアフリカ的段階では、
死は生を支える根拠だった。

避けられないものを排除して文化を作る。
あたかもそれがないかのように振る舞う。
そんな文化が人を幸せにするわけがない。
人は老いと死をおそれ無視し逆らい、
挙句の果てはただしなびて死ぬ。
そして自分の生にはなんの意味もなかった、などと思ってしまう。

人類は長い歴史のなかで、
死や他界をふくまない文化を持ったことはなかったのではないか。
ごく最近の人間中心主義が台頭するまでは。

こんなことはちょっと本を読んでいれば誰でも知っている。
それを本気でどうにかしようとする者がいないだけだ。
踊りを死と結びつけようとすると、とたんに人気がなくなる(笑)


・・とまあ、ちょっと愚痴を書いてしまいました。
このブログを読んでいる人はどんな人なのだろう?
ブログは私を社会とつなげる細い糸です。
まだ先ですけど、11月5日に公演をやります。
私のソロもあるけど、稽古場としての公演なので生徒さんも踊ります。
具体的にはこれから徐々に告知しますので、よろしくお願いします。
あ、それから、
押井守氏との対談集「身体のリアル」が来たる8月末に発売予定です。
こちらのほうもよろしくお願いします。