05 2018

腕とはどこからどこまでをいうのだろう。
肩甲骨や手指も含み、体の器官というよりは、なにか「ひとまとまり」をさす言葉だ。
私は腕という言葉にロマンを感じる。

踊りにおいて、腕は翼である、と私は思っている。
鳥が翼を広げる時の、あのおおらかな快楽。
天からの贈り物であるかのような、寸分の狂いもないダイナミックな動き。
重力との厳密な関係から生み出され、
肩甲骨の付け根から、ぐわんと立体的に展開される、めまいのするような、えも言われぬ動き。
空気を揺さぶる、空間をつかむ、力強さ・軽やかさ。
無限の彼方まで広がっていく。

サン・ジョン・ペルスの詩に、
「あの頃、女たちの腕はゆったりと動いていたものだ」
という一節があって、それが妙に忘れられない。
ゆったりと腕を動かす女性は、今はいなくなった気がする。
ゆったりと腕を動かす女性は、体の中に甘い果実を実らせているに違いない。
ゆったりという動きは成熟の動きだ。
少年少女や子どもの動きではない、オトナの動きだ。
ゆったりと腕を動かすとき、その者の内部はその場所にとどまり、たゆたっている。
先を急いではいない。
いま・ここにある・生、のなかに過不足なくおさまっている。
それは「生きている」ということだ。
無条件に存在している。
理由も意味もいらない。
因果律も起承転結もいらない。
彼は・彼女は・わたしは・・  存在している。それだけ。

そしてその腕が、
覚悟を決めたように、翼を広げる。
あらゆる動きの始まりは、常にゼロからの第一歩だ。
鳥の翼。
空気をかき乱す。揺さぶって風を起こす。
ひとつの法則のように。
任意でありながら正確に。
ゆっくりでありながら目に捉えられない速度で。
その動きは、決してひらひらしていないのだ。
優雅で大胆で、なんのためらいもない。
おのれの存在を官能のうちに宣言する。
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4月22日(日)に、銀座の奥野ビル306号室でワークショプをします。
「身体のリアル-実践編-」というタイトルをつけてみました。

「身体のリアル」を読んで、実際にどんな舞踏なのか知りたい、
という声が私のまわりにチラホラと聞こえてきたので、企画してみました。
定例の稽古でしていることの一部をピックアップして、
踊りの経験のない人にもわかるように、言葉で丁寧に解説しながら、実際に動いてもらいます。
それと、私と稽古場のメンバーが短時間の踊りをして、見てもらうというものです。
公演とは違う小さな空間で、身体の持っている空気感を感じてほしい。

会場はとても小さな空間で、また内容の密度を保つために、参加者は限定5名までとします。
今回はTwitterでWSの告知をして、2〜3時間で5名の定員が埋まってしまいました。
まさかこんなに早く埋まるとは思わなくて、ブログで告知する時間がありませんでした。
とりあえず1回やってみて、需要が続きそうなら2回目3回目と続ける予定です。

1回の体験で「身体のリアル」にあるものの核心に至ることはないでしょうが、
なんとか一部でも体験してほしくて、どんな内容にしようかと思い悩む日々です。



15 2018

眼の話

珍しくブログ書きます。他愛のない話です。

私は道を歩いている時に、よく意識状態を様々にチェンジする。
意識状態を切り替えることによって、ものの見え方が変わるのを楽しむわけだ。

例えば背後に意識を置くと視界が広くなり、眼の両脇方向まで見えて、体が軽くなって自由感がある。
急に肩の力が抜ける。視界が明るくなる。
空間全体を意識すると、世界が四角い平面から球面になる。
(これはちょっとセザンヌの「大水浴」の図に似ているが、もっと開放的なものだ)
足の下の地面がほんとに球面になるのだ。足裏の感覚も変わる。
これはなぜなんだろうと思う。
世界を眼で見ているのではなく身体で感じている、ということのようだ。
なぜって、眼には地球の球面をうけとめる能力はなさそうだから。
大きな海を前にした時とか以外には。
せせこましい街を歩いていて、地球の球面が見えることはまずない。
だとすると身体はそのように、眼に見えない世界を感じ取る力があるということだろう。

舞踏状態と私が名付けている意識状態は、いろいろある意識状態の中でもかなり深いものだ。
舞踏状態をやると、目の前の外界が揺らぎ出す。
遠近法が崩れてくる。
外界と自分との区別が消えていく感じ。
自分の体の輪郭も溶けていく。
体の平衡が崩れてきて、足元がぐらついてくる。
軽いめまい、ごく軽い嘔気がある。
そして眼が少し痛くなり涙が出てくる。
それ以上続けるとどうなるのか、試したことがない。
なんだか怖いのと、たぶん立っていられなくなるから。
ほんとに吐いちゃうかもしれないし。
これ以上いかなくていいのだと思える。
あっち側にイっちゃうと、人生がヤバくなる気がするので歯止めをかけてしまう。
境目にいないと踊りにならないし。
このぎりぎりのところにいないと、逆に何か大切なものを見失う気がする。

どうして眼が痛くなって涙がでるのか。長いあいだ不思議に思っていた。
そして最近あることを思いついた。
日頃私たちの眼は遠近法で調整されている。
無意識のうちに世界を四角い平面と遠近感覚で見ているわけだ。
ちょうどスクリーンか額縁をみるように外界をみる、そのように眼球調整ができている。
デカルト的空間感覚とでもいうか・・
それが舞踏状態に入ると、遠近法が崩れるので、眼球のレンズ調整が適応できないのではないか。
そう考えると腑に落ちる。
実際、眼球がきゅうっとたわむ感覚がある。
歌舞伎役者の眼が真ん中に寄っているのを絵で見たことがあるけど、
こういうことと関係しているのかもしれない。
黒目が真ん中に寄るのは眼球の調整の一種ではないかと。

眼は自己の内部と外界との窓口、つなぎ目のようなものだと、あらためて思った。
そこは空洞になっていて内と外が通り抜ける。
眼で見ることに慣れすぎていると、眼以外で外界を受容する能力が低下するなと思う。
現代人はどうしても眼に意識が集中するので、
(そのくせ現代人は眼が死んでいる)
眼と身体全体をつなぎなおしたいと思った。

眼の空洞といえばこれも最近、仮面をつけることの意味で、はたと気がついたことがある。
先日仮面をつける稽古をしていて、とても劇的な場面に遭遇して、思いついた。
仮面は眼の部分が空洞だ。これはナニカすごい。
そして仮面の稽古を深めたいと切に思った。
でもやるべき稽古が多すぎて、なかなかそこまで行けない。
仮面と眼についてはまた別の機会に書きたい。
28 2018
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遅ればせですが、昨年11月公演の写真を掲載します。
公演の雰囲気が少しでも伝わればいいのですが・・・

数年ぶりの公演で、舞台製作に不慣れなために、思った通りにはいかなかったものの、
お客様が、終了後もいつまでも残って、私は質問攻め状態で、とても嬉しかったです。
こんな経験は初めてで、質問に答えているうちに喉がカラカラになってしまいました。

まだまだ自分の実現したい世界とは遠いけれど、何かを伝えられたのかと、少し自惚れています。
この公演を通して見えてきたものがたくさんあり、それは厳しい試練の始まりでもあり、
今はどっと疲れる、というか途方に暮れている状態です。
しかし、そろそろ生気が戻ってきました。
内省の冬の季節を過ぎ、春がやってきたことだし、
やがて桜も咲くでしょう。また頑張りたいと思っています。

ちょっと(かなり)自慢になりますが、
数年ぶりに私の踊りを見た押井監督が、
「すごい、立っているだけでいい。腕を上げたなぁ」とつくづく感心していました。
それと「はじめから終わりまですっごいエロい」という、ある人の感想も嬉しかったです。
今では身体は身体であるだけでエロいのだと確信しています。
稽古を重ねていくと誰でもエロくなっていくのだと。
老若男女だれでも、です。

そうそう、この最後の写真、私の宝物です。
身体が水に浮かんでいるように見えるので、目をこすってしまいました。
篠山紀信も真っ青の美しさ。
写真に加工は施していません。どうしてこんな写真が撮れたのか不思議です。
床稽古の成果でしょうか。
床に横たわっている時、まるで海の底にいるような感覚に襲われるからです。
横たわる身体の周りに水が生成するのではないかと。
その感覚がカメラを通して現れたという可能性はおおいにあります。
ただ横たわる稽古の奥深さを感じています。
もちろん、写真家さんの腕が第一なんですけど。



(撮影 田中流)



19 2018

お久しう・・

長らくブログを休んでしまった。
昨年11月の公演が終わってから、それまでとは違う精神状態になり、
今までと同じ活動の仕方をしていては、手詰まりだと感じて。
かといって、この先どうしていいのかわからなくて、悶々とすごしていた。
ブログを書かなかったくらいだから、そうとう落ち込んでいた。
稽古場もやめて出直そうとか、まあいろいろと考えてしまった。
今でも次の展開が見えているわけではないけど、
ほんの少し光が射してきたように思う。

どんなに努力しても何を試みても、どんなに面白い稽古をしていても、
横這いかジリ貧で、それはそれは切ないのである。
その原因はどこにあるのかといえば、もう答えはとっくに出ているので。
すなわち「額縁がない」というに尽きる。
これが解決しない以上、これから先、死ぬまでジリ貧生活である。

追い詰められて、どうにかしたいと思い、
でももう歳が歳だし。ゼロから頑張る気力がない。
この疲弊感がわかる人間なんてどこにもいない。と意地になる。
根性ありすぎのサガで、とんでもない地平にボジショニングしてしまった。
もう呪いしかない。
えらそうなアドバイスをされると腹がたってならない。
何もしない人間に限ってわかったようなことをいう。
腹が立つ。
苛立ちが自分を蝕む。
せめてこの疲労感だけでもわかってほしかった。
でも人生こんなもの。
誰がいちいち他人の苦労や疲労に付き合うかい。

そんな数か月だった。
そして今、私の関心は「言語化」に向かっている。
つまり額縁づくりだ。
ひとりの個人が作れるはずもないし、
稚拙なものをつくったところで、読む人もいないだろうし、
社会はビクともしない。
それがわかっていても、あえてそれをやってみよう、という気持になった。
言語化については、しんどいので、絶対にやりたくないと思っていたが、
もうそれしか方法がない。
たとえ受けとめる人がいなくても、やらなくてはならないことってあるな、
とわかった。

ブログはこれからも書くけど量は減るだろう。
もしかしたら、できないで挫折するかもしれない「言語化」に取り組むので、
他のことには省エネで臨みたい。
踊り手にとって、まとまったことを書くことは、言語に絶する労働なのです。
それが証拠に、やっている人はほとんどいない。
言語化にはかなりの時間がかかると思う。半年とかでは出来ない。

あともう一つ、小ワークショップをやる予定。
タイトルは「身体のリアル・実践編」ということで。
これは稽古に来るほどではないけど、どんな稽古をしているのか見てみたい、
ちょっとやってみたい、というような人を対象に行う。
ごく小さな空間で限定5名まで受付ける。
場所は銀座のビルの一室。
そこで私(と生徒さん)が基本的な動きをして、参加者に見てもらい、
そのあと参加者にも実際に動く稽古をしてもらう。
最後に私の身体観に関するトーク&質疑応答を行う。
といった一連の内容を考えている。
可能であればシリーズで何回か行いたい。
一種の草の根運動みたいなものですね。

当面はそういう方向でやっていきます。
今後ともよろしくお願いします。