26 2017

暴力シーン・原罪など

映画は、ありとあらゆることをしてきたなと思う。
時代劇あり、SFあり、ファンタジーあり、メロドラマあり、西部劇あり、ポルノあり、
海洋物あり、戦争物あり、動物モノあり、ミステリあり、文芸物あり、刑事物あり ・・・
映画は歴史は浅いけど、短期間に一挙に花ひらいた感ある。

私には理解できない、映画の、ある側面。
それは暴力シーンだ。
私には暴力衝動はない。
自分で気がついていないだけなのか、それはわからないけど。
小説や絵画や音楽や、その他のジャンルと較べると、映画の中で、暴力は一気に噴出した気がする。

先日TVでたまたま北野監督のアウトレイジを見て、いろんなことを思った。
映画じたいはとても面白くて、たいしたものだと思いつつ見ていたけど、
暴力シーンになると、思わず目をつむってしまった。
だって、あまりにも凄まじいんだよ。残酷で。
まあほとんどが暴力シーンなので困っちゃったんだけど。
よくもまあ、あんなに次々と暴力のバリエーションを思いつくものだなぁ
考えてみると、暴力シーンを撮るには、
どうやって人を殺そうかと、あの手この手を考えるわけで、それって凄まじいよね。
そんなことに人が腐心している光景は。
実際の現実では、ちょっと怪我して血が流れても大騒ぎする男性が、
表現世界では、これでもかと血を吹き飛ばすんだから。

暴力シーンが悪いとかそういうことではなく、
この表現欲ってなんなのか、どこから来るのか、と考えてしまった。

身体をやっている自分の立場に引き寄せすぎかもしれないけど、
その暴力表現に対する果てしない欲望が、
「身体がない」ことへの苛立ちのように、私には感じられてしまった。
「俺には身体がない、なんとかしてくれ〜 ! !」という叫び。
それだけが理由ということはないかもしれないけど、確実にそれはあると思う。
身体がある人が暴力を欲するとは考えにくい。
女性には暴力衝動が少ないのはそのせいか。
最近は女性も男を殴ったりするから、女性も身体がなくなってきているのかな。

アジア圏よりも欧米のほうが、暴力を好む傾向があるという印象。
アメリカ映画の暴力シーンとか、身体破損のリアル描写とか、執念のようなものを感じる。
何もこんなにまでリアルにしつこく描くことないだろうと思う。やりすぎ。
それって、身体を失っている者たちほど暴力を欲する、ってことなのか。

人類が身体を失ってきた歴史って、すごく長いから、
身体のない苛立ちは、いつのまにか、それこそ身体に蓄積されている。
頭や心はそれを意識していなくても、身体はその喪失を忘れない。

・・と、暴力シーンを見ていて、そういうことを感じた。
これは表現としての暴力だけでなく、現実に暴力を振るうことも同じではないか。
身体のない者は苛立ちやすいし、短絡的だ。

ついでに、人間の原罪意識についても何かを感じた。
人間の原罪意識ってどのようにして形成されたのだろうか。
キリスト教に顕著なのはなぜなのだろう。

私は、人類のしてきた最大の罪は、動植物の虐待だと思っている。
生きるために必要だから動物を殺していた頃でも、罪の意識はおそらくあった。
だから、動物を殺してそれを食べる時には儀式が必要だったのだ。
でも時代が下るにつれ、食べる必要をはるかに越えて、人は動物を殺し続けた。
毛皮を取ったり、単なる娯楽のための狩りをしたり、その他のさまざまな目的で。
森を切り崩して木を殺し、動物たちの住処を奪ってきた。
しかも贖罪と感謝と畏敬の儀式をはしょりつづけて、今やただの殺人鬼みたいになってる。

動物や植物を殺しつづけた時の、殺した側の(心ではなく)身体の受けたダメージ。
殺した者がそれを意識していなくても、身体はダメージを受けてきたと思う。
なぜなら身体は外界とじかに繋がっていて、
他者が傷つけば自分も傷つくようになっているからだ。
他者が「痛い」ときは必ず自分も「痛い」
それはヒューマニズムなどではなく、物理法則のようなものなのだ。
宇宙原理のようなものなのだ。
すべてはめぐりめぐって繋がっている。

その、身体の受けたダメージが蓄積されて。人間の原罪意識を作ったのではないか。
それは観念ではなく物理だ。モノとしての蓄積なのだ。
と、私には思えるのだ。
人間は「なにか自分はやましいことをしてきた」という漠たる思いをかかえている。
そしてその原罪意識をチャラにするために、宗教を必要としてきたとしたら、
ずいぶんとややこしいカラクリを、人類は作ってきたものだ。
04 2017

死と身体

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今さら言うまでもないことだろうけど、
身体と関わることは死とかかわることだ。
人類は(特に欧米は)なぜ身体を排除してきたか。
それは、身体は死を思わせるからだろう。
生の礼賛は死の遺棄とセットになっている。
その欧米思想で全地球が覆われたかに見えるこんにち、
人は若さを称揚し老いを遺棄する。
資本主義の狂ったような生産力もまたそれに通底している気がする。
死を恐れるかのように果てしなく生産し続ける。

一般的に言って、
東洋・アジアの思想では、あるいはアフリカ的段階では、
死は生を支える根拠だった。

避けられないものを排除して文化を作る。
あたかもそれがないかのように振る舞う。
そんな文化が人を幸せにするわけがない。
人は老いと死をおそれ無視し逆らい、
挙句の果てはただしなびて死ぬ。
そして自分の生にはなんの意味もなかった、などと思ってしまう。

人類は長い歴史のなかで、
死や他界をふくまない文化を持ったことはなかったのではないか。
ごく最近の人間中心主義が台頭するまでは。

こんなことはちょっと本を読んでいれば誰でも知っている。
それを本気でどうにかしようとする者がいないだけだ。
踊りを死と結びつけようとすると、とたんに人気がなくなる(笑)


・・とまあ、ちょっと愚痴を書いてしまいました。
このブログを読んでいる人はどんな人なのだろう?
ブログは私を社会とつなげる細い糸です。
まだ先ですけど、11月5日に公演をやります。
私のソロもあるけど、稽古場としての公演なので生徒さんも踊ります。
具体的にはこれから徐々に告知しますので、よろしくお願いします。
あ、それから、
押井守氏との対談集「身体のリアル」が来たる8月末に発売予定です。
こちらのほうもよろしくお願いします。
16 2017

モノの解体 2



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スローという稽古について、しつこく書きます ^^;

私のしている稽古の大半は、身体運用の稽古を別とすれば、
「身体の内部を引き出す」ための仕掛けだ。
(そして引き出された内部をいかに形にしていくか)
内部とは、まだ事物や人間や、自然すらもが、形になる前のある状態であり、
エネルギーの沸騰状態みたいなものかなと思う。
「無」の領域ともいえるのかもしれない。
哲学が長いあいだ内在野とか内包量とか呼んできたものだ。
形がないものだから、それをどんなものと、あらかじめ提示することはできない。
外に引き出して具体的になった時(人間の動きになった時)、
はじめて何か見えるものになる。

ありきたりの動作を、ただゆっくりおこなうだけで、
内部が発現し、最終的には聖性にまで至る、という単純で驚くべき稽古であると思う。
(スローの稽古自体は演劇の稽古などでもおこなわれているが、程度と意味付けが少し違う)
ただ偉そうに哲学の言葉を振り回すのでなく、
それをやってみればとても気持がよく、満たされる、ということが肝心だ。
誰にでもできるし、積み重ねていけばエクスタシーだし、ダイレクトに異界に参入できる。
ただし、うまく行く時もあれば行かない時もある。
いつもおいしい思いをしたい人には向かない稽古ではある。
ドラッグも儀式的手続きも踏まずに、 素で勝負するのだから、簡単ではない。

先日この稽古を私もしてみた。
いつもは生徒さんがするのを私は見ているだけ。
生徒さんの動きや意識状態をチェックするために、ふだんは私は稽古に参加しない。
でも11月に公演を控えていることでもあり、私自身も稽古の必要を感じたので、
数年ぶりにスローを生徒さんと一緒にやってみた。

それは私にとって、いまだかつてなかった深い体験になった。
一種の脱魂状態になり、言葉では言えない、「行っちゃう」感覚だった。
ただふつう言う脱魂と違うのは、自己意識は明白にあることで、
あとで思い出せないとか、自分をコントロールできないとか、そういうことはない。
そこがイタコとか古来の儀礼的トランス状態と違う。
このことは現代人として重要な気がしている。

写真では伝わらないとは思うけど掲載してみた。
お茶碗に入れた水を10分〜15分かけて飲む、というスローの稽古。
この時、お茶碗も私自身も、溶解して形をなくした。
手に持つものはもはやお茶碗ではなく、何とは言えないものになり、
自分は自分でなくなり、
世界は星雲のようにうねり、揺らめいて、
まるでフィルムを巻き戻すように、始原?らしき世界に吸い込まれていった。
それでも意識は明白にあり、自分が何をなすべきかはわかる。
10分で茶碗を元に戻そうと思っているし、ちゃんとそれができる。
その明白な意識とトランスとの間に浮かんでいることが、たまらなく気持がいい。
理屈抜きに「これだ」と感じる。これこれ、これなんだよ、と。

この体験は言葉にすると、
事物の分子化であり「器官なき身体」であり、
時間と空間がいまだ分化していないところから、差異によって時間と空間が生成する過程なのだと思う。
スローで動くとは、一瞬一瞬を刻むことによって、差異を明確に成立させることだ。
時間とは差異であり、時間の生成は空間を生む。

私はドゥルースやアルトーを読むと、これは全く舞踏のことだと感じてきた。
おもわず笑いが出るほど、舞踏とみごとに合致してしまう。
分子化された世界、それは原初世界のことかと思う。
分子化が緻密であればあるほどエクスタシーは深まり、他界に接近していく。

スローでトランスになりながら、意識的に一定の動きをしていくとき、
世界を原初に巻き戻そうとする力と(フィルムを巻き戻すように)、
世界を(風呂敷を開くように)ひらいて展開しようとする力が、
拮抗的に働き、人間はその両者のせめぎ合いの中で溶けて、宙吊り状態なり、
めまいしながら見えない世界に吸い込まれていく。
このせめぎ合いの感覚がたまらない。酔い痴れる。


 ・・・こんなことをやっていると表現からますます遠ざかる(笑)
それは哲学であって芸能じゃない、という声も聞こえそうだ。
私はこれは芸能のベースであると思っている。
原初からあまりにも遠ざかってしまった現代人は、
これくらい手間をかけないと芸能の力に至れないのだと。
それが私のポジションなのだから仕方ない。
誰も歩かない道をひとり歩いてきた誇りがある。
身体以外の何ものも前提とせず、見えない道を嗅ぎ当てていく野生の道。
誰も私が歩きながら見てきた、同じ景色を見ることはない。
なんと言われようと、獲得されたこのベースを私は手放すことはできない。

   
  これを芸能につなげていく茨の道が待っている。
08 2017

歩行




昨日の稽古にて。
歩行の稽古をしているとき、誰もが気高く見える。
私は人間が気高く見える瞬間が好きだ。

日常の歩行とは違う、
このような「表現としての歩行」をしているとき、身体は、
「私とは何者か、私はどこに向かって歩いているのか」と、
みずからに問うているような気がする。
頭で考えるのと違う「身体の思考」

アフリカの大地を、地平線に向かって、
悠然としずかに歩きつづける象の群れのように、
胸に迫る。

人間が歩いているだけで、
どうしてこんなに胸がいっぱいになるのだろう。
稽古は素晴らしいな。

11 2017

ニジンスキーの動画

写真しか残っていないとされていた、ニジンスキーの踊りの動画が発見されたそうです。
驚きました。
まさかまさか、自分が生きているうちにこんなことが起ころうとは。
まだ頬っぺたつねりたい感じです。

YouTubeで見るとかなりの再生回数なので、もうご存知の人が多いんですね。
私は昨日知って興奮しています。

動画を見てみると、
写真を見て想像していた通りの動きなので、写真てすごいなと思ったりしています。
同じ動きでも、踊る人によってまるで印象が違いますね。
ニジンスキーは人間離れしていて、天使のようです。
そしてこの体、白人系じゃないですねー
なんと舞踏に似ているのでしょうか。
というより、舞踏のほうがニジンスキーに影響されているんですよね。

ただ舞踏的でありながら、やはり舞踏とも違う。
うーん、感想ありすぎて、今ここでは書けないなぁ

「牧神の午後」などもありますので、興味あるかたは探して見てください。