21 2017

モノの解体

いつだったか、稽古で面白いことがあった。
スローという稽古で、湯呑み茶碗に入れた水を10分かけて飲む、というもの。

この動作の途中で一瞬、ある生徒さんのお茶碗が、手から離れて空中に浮いたように見えた。
正確に言うと「浮いた」のではなくて、なんとも言いようのない状態になった。
お茶碗が溶けたというか、形がなくなったと言うか、
とにかくもいつも見ているお茶碗ではなくなった。
それを持つ手もなんだか奇妙だった。溶けたというか変形したというか。
お茶碗と手の組み合わせが、流れ出したというか、霧状になったというか。
そういうのともちがう。
現れたり消えたりするような現象が一瞬起こった。
(身体もまた時としてこういう状態になるのですが)
目がその現象を捉えられなくなり、それを語る言葉もない。
その後すぐに、ただのお茶碗に戻った。
「あれっ」と、ちょっと目をこすりたくなるような感じ。

この稽古のあと本人に訊いたところ、
「突然お茶碗が別のものになってびっくりした。なにか尊いものに感じられた」と言う。
彼女の体験したことと、私の見たものが一致したのだった。

モノとの関係が日常とはちがう次元に移行する。という現象だ。
そのときモノはただの物質ではなくなり、アニミズムで言う精霊=スピリットが、
事物の中でめざめた、とでも言えばいいのか。
まるで魔法のようなんだけど、本当のことだ。
滅多にはないけど、稽古を重ねていけば、しばしばなる。
事物は変容する。
これは時空のn次元化ということだとも言えるかな??

人形遣いは訓練をして、人形を生きたもののように動かす。
舞踏の稽古では人形どころか、ただのコップのような無機物でも生きてくる。
生きているように見えるのではなく、ほんとに生きてくるのだ。
モノは日常の形を解体して、もやもやした得体の知れない見たこともないものになる。
これがオカルトでも妄想でもないことが私には大切で、
この世界に何か全く新しい(古い)ことが起こっていると思う。
私にはこれこそが〈リアル〉であると思える。
この形なき世界と、現実のいつもの世界、が重なっているのが。
(今でも地球上のある地域では起こっているだろうし、人類史の古い時代にはどこでも起こっていた、たぶん)
一瞬のことなので、殆どの人が忘れてしまうし、覚えていてもただの珍しい話にしかならないが、
ほんとは「認識」の問題にするべき何かなのだ。

このような現象は、事物の内部にまで意識が届いた時に起こるようだ。
経験的に言うと。

人間の身体もモノも、ある一面ではただの物質だ。
でもその内部はただの物質ではなく、なんというか・・
形而上的なものであると思う。
このことの重要性はいくら力説しても足りない。
通常の私達の世界とは全く別の世界が、この世界のまっただなかにある。
近代的な認識がつくりあげた世界とは別の世界が。
こういうことはある種の本には書いてあるけど、大切なのは実際にいつでも起こり得るということだ。
そしてその体験を表層のオカルトにしないこと。

だからなんだ、と言われても困る(笑)
私はこれはすごく大切なことだと、カンで思っている。
内部がにゅるにゅると外に出てきたのだと。
あるいは世界の裏側が顔を出したのだと。
「地と図」の地が露出したのだと。
これは踊りのすべてではもちろんないけど、可能性のひとつであり、
世界のはかりがたさに私は打たれている。

18 2017

床稽古




床稽古の写真を掲載してみます。

床稽古については何回も書いて来ました。
まだいくらでも書けるけど、やめておきます(笑)
あんまりしつこくなるので。

この写真は、床にしばらく横になってから、立ち上がろうとしているところです。
まるで床下から引っ張られているように、なかなか立つことが出来ません。
重力につかまってしまった、という感じでしょうか。
意識と無意識の境界にいるというか、
体が金縛りにあったように、思うように動けない。
でも自由意志も働く。
朦朧としているけど、ちゃんと理性も客観性もあります。
いわく言い難い不思議な状態。
身体はひとりの人間というよりは「場」の存在になり、大地の粒子に溶けているようです。
どこかゾンビっぽい。半分は死んでいるようなものなので。
やっている本人はとても気持がいい。
日常性や社会性から抜け出て、人間であることも解体していくよう・・
蛹から液体状に抜け出ていくような、新生の感じもある。
08 2017

奇跡

舞踏を始めた頃、稽古場の主宰者の舞踏家が、
「玉三郎がいくらみごとな踊りをしても、そこに奇跡は起こらない。でも舞踏では奇跡が起こることがある」と言っていた。
当時は意味がよくわからなかったけど、今はわかる。
でもそれを説明するのは難しい。下手するとオカルトになってしまう。
あるいはSFか少女マンガのように語るしかない。
というか、科学や合理主義がとりこぼしてきたものを、SFや少女マンガが拾いあげてきたのかもしれない。

踊るという行為には、名人への道とは別の道がある。
もっとはるけき道、広大な領域が。

舞踏家は時として大げさなものの言い方をする。
それで、傲慢とか、思い込みだけで客観性がないとか思われてしまう。
私は客観性をもつように、すごく気をつかって文章を書くように努力しているけど、
どうしてもうまく言えないこともある。
奇跡という言葉もそれで、説明のしようがない。
多少ヘンな人と思われても、ぎりぎりのところでオカルトにならないように、
奇跡という言葉を使ったりしている。

奇跡とか神秘とか神とか、私はしばしば言う。
ほんとはこういう言葉を躊躇なく使えるほうがふつうだと思っている。
もともとオカルトじゃないんだから。
「身体」が蔑ろになっていることと、こういう言葉がオカルトになりがちなのとは通底している。
なんでも合理的科学的に割り切ろうとすると「神」なんて言えなくなってしまう。
身体を科学的合理的にわりきろうとすれば、そこに神など住めるわけがない。

おまけにたいていの場合、ダンサーや舞踏家は言語化が苦手だから、
言説で終始している哲学や認識の世界と会話が成立しにくい。
認識世界では神とか奇跡とかの言葉は、そうそう簡単には使えないだろう。
使おうとすれば、その言い訳=前提を30ページくらい書いてから、ということになる。
舞踏家はそんな悠長なことはしていられない。
書くことは専門ではないし、そんな時間があったら稽古したり衣裳を作ったりしていたい。

奇跡というと、聖書に出てくるイエスがおこなった治療とか、
ジャンヌ・ダルクの召命とか、
シャーマンが雨を降らせたとか、
そういうはっきりとイメージできることがすぐに浮かぶ。
たぶんああいう奇跡は、実際に起こった地味で見えにくいものを、
歴史過程がドラマチックにわかりやすく編集し直したのだろう。と私は思う。
人間の歴史のなかで奇跡は実際に起こってきたのだと思う。
でも実際に起こっていた時には、見えにくかったのではないか。
ジャンヌ・ダルクの召命の奇跡は、内的で見えにくいものだったのだろうな。

今だってイエスのように治癒力を持っている人はいる。
でもそれをドラマに仕立てる歴史的条件がないから、知る人ぞ知るの世界でしかない。
たぶんたくさんの奇跡が埋もれて消えていっている。

舞踏の奇跡もそれだ。
私は奇跡を体験しているけど、それは、
例えば稽古を共にし続けるという条件がないと、人の目には見えない。
経験したとしても、そこに何が起こっているのかを認識できなければ、存在しないも同じだ。
それは私の記憶のなかに封じ込められている。

小さな奇跡はおこり続け、人はそれを見逃しつづける。
そして奇跡に大小はなく、小さいからと言って大きいものに劣るわけではない。
奇跡は生まれてはすぐに消えていくものなので、それを定着させる方法はない。
私は奇跡の感触の素晴らしさが忘れがたいから、舞踏を続けている。

あえて示唆するとすれば、それは、

 時空のたわみ。異界の侵入。
 無病の世界。
 身体と空間のn次元化。
 外界と自己との一体化。
 原初の音を聴くこと。
 先人=死者との重なり。  エトセトラ。

そして、これらは瞬間の中にしか存在ない。
証明も定着も出来ない。
それを指し示す指先が見えるだけ。

 ・・・ 結局、奇跡の具体的内容の説明は出来なかった(笑)
じつは十全にではないけど、奇跡を語る言葉はないわけではない。
でもとても手間がかかるし、誤解されやすいので語らないほうがいいと思う。

01 2017

好きな話

誰かのブログだったか、何で読んだのか忘れだけど印象深い話。

ホームレスらしきお婆さん。
よれよれの重ね着をして、汚れたキャリーバッグをずるずると引きずりながら。
あるデパートの売り場を横切って行った。
(トイレにでも行ったのかな)
その姿、歩きっぷりが、あまりにも味わい深く見事だったので、
おもわず足を止めてずっと見ていた、目が離せなかった、という話。

この話、面白くて忘れられない。
デパートの明るすぎる照明、ピカピカの床や高い天井。
きれいに化粧した若い売り子さんのつくり笑顔。
その大通りをボロボロのおばあさんが、よろよろと、そして(多分)
堂々ともしていただろう歩く姿が、
とても舞踏家などかなわない、見事な光景だっただろうな、と思う。
私にはその光景は、広場の白昼の祝祭みたいに思える。

強い真昼の光のなかを危ういヒトガタが歩く。

社会性を剥奪された、むき出しの歩行。
老女のその歩行は、無機質で味気ないよそよそしいデパートの内部を、
一瞬にして劇場に変えたことだろう。

これこそ舞踏だ。他界の息吹もある。
時空はたわんだに違いない。
見てみたかった。

26 2017

着るということ(1)

私の稽古では、日常のありきたりの動きを深めていく、ということをやっている。
もっともありきたりの行為として、食べる、着る、というのがあり、
ここでは「着る」ということについて考えてみる。

食べるというのは人間でなくてもするが、「着る」のは人間だけ。
なぜなのだろう。これはとても大きなテーマだ。
人間は身体にどのように対処してきたか。
「着る」という以前に身体を加工するという行為があり、たとえばタトゥーとかがそれだ。
人間にとって身体は自然ではなく、何かしら手を加えなくてはならないものだ、というのが肝心。

人間が自意識を持ったとき、すなわち世界と自己が分離した時、
まず初めに、わけのわからないしろものとしてあったのが、身体ではなかったか。
動物においては身体=自己=世界であるのに、
人間にとって世界は自己意識と切り離され、身体は腐ったり死んだりする、思うようにならない他者となった。
身体を加工するという行為が、世界(自然)と自己を結ぶための位相変換として、必要になった。
なぜ神はそのようなものとして人間を進化させたのかは、ここでは問わないが。

生物は生まれて死ぬ。
動物はそのことを否定も肯定もしない。
でも人間は、死ぬという受け入れがたい不合理に対処しなくてはならなくなった。
身体を意識するとは、死を意識することでもある。
思念想念観念は永遠の領域に飛翔することができるが、身体はいずれは腐り死ぬものとして、
人間をいつまでも地上に縛りつける。

人がこの思うようにならない身体を、いかに自己の生のなかに定位していくか。
言葉を変えれば、いかに新たに自然と関係を結んでいくか。
文化として、身体を、生と死を、組み込んでいくか。
それは人間にとって至上命令だっただろう。

まずは身体にじかに加工を加えて、メビウスの輪を介在させ、自然と人間を関係づける必要があった。
タトゥーなどによって。
そののち、「着る」という行為が生まれた。

人間がその歴史のなかで、数限りなく繰り返してきた「着る」という行為。
それは最初は世界の再創造、といってもいいくらいの変革であったろう。
着るという行為の無限の繰り返しが人にもたらす、思いの機微の集積は、
私からみると霊性そのもののように深い。
抽象論議の霊性ではなく、あまりにも単純な具体性として。

実際に多くの儀礼において、食べることと着ることがメインとして組み込まれている。
着たり脱いだりすることに死と再生を象徴させ、
水を口にふくんだり、直会として神と食事をわかち合ったり。

そのような行為。食べるとか着るとかいう行為のなかに霊性を求めたい。
動物のように人が美しくなるためには、日常の動きこそが意味にみちて美しくなければウソだろう。
人は生まれて死ぬまで日常の行為を繰り返す。
それが無意味であっては、どのような身体表現も虚しい。

そんなことを考えても、実際問題として何ができるのか、どんな成果が出せるのか、なんの保証もなかった。
形としての儀礼に本来あったはずの、内的強度をこそ問題にしていた。
そうでなければ伝統芸能や既存の儀礼だけでじゅうぶんだったはず。
私にとって儀礼とは、血の匂いのするものであり、形だけの味の薄いものではなかったのだ。
何かを愛するとはそういうことではないか。