11 2017

ニジンスキーの動画

写真しか残っていないとされていた、ニジンスキーの踊りの動画が発見されたそうです。
驚きました。
まさかまさか、自分が生きているうちにこんなことが起ころうとは。
まだ頬っぺたつねりたい感じです。

YouTubeで見るとかなりの再生回数なので、もうご存知の人が多いんですね。
私は昨日知って興奮しています。

動画を見てみると、
写真を見て想像していた通りの動きなので、写真てすごいなと思ったりしています。
同じ動きでも、踊る人によってまるで印象が違いますね。
ニジンスキーは人間離れしていて、天使のようです。
そしてこの体、白人系じゃないですねー
なんと舞踏に似ているのでしょうか。
というより、舞踏のほうがニジンスキーに影響されているんですよね。

ただ舞踏的でありながら、やはり舞踏とも違う。
うーん、感想ありすぎて、今ここでは書けないなぁ

「牧神の午後」などもありますので、興味あるかたは探して見てください。





07 2017

わたしの踊りの欲望

舞踏を始めた頃は、ただ踊れるようになりたいとそればかりを思い、でも、
途中から、じぶんが踊ることに何を求めているのかが、気になってならなかった。
舞台人としての成功ではない。
名人になりたいとか、そういうこととは違う。
ただ踊ることが楽しければいいと、そういうことでもない。
踊るという行為に、人間が人間であるための、根源的な何かを求めるようになっていった。
そしてそれが「儀礼」という言葉に集約されるようになった。
人間は、この虚無のなかに「有」としての自らの存在を打ち立て、
たえずそれを更新していくことでしか、生きることが可能にならないと思えた。
それはわたしが若い頃に、この現実のなかに深淵-底なしを見出し、
そのことで、息の根を止められるほど苦しんだことから来る欲望だった。
人は生きなくてはならない。なんの根拠もないところで。
そしてわけもわからず死んでいく。

動物と決別して自意識をもった呪われた存在である人間が、
たえず自己の存在を打ち立て続ける、その危うい綱渡りを、
もっとも深いところで成立させる、「儀礼」の、その中心に「身体」がある。
と思うようになった。

人類学や民俗学などの本にあるように、
それを言説で終始させることでは満足できなかった。
いくら大切な知識がふえても、私たちの生き難さは少しもよくならない。
こんな知をいつまでも続けて、自分の足元はお留守のままなのか、と義憤すらおぼえた。
また書物にある儀礼には、身体に対する着目がほとんどない。
「身体で」やるもの、という程度の着目であり、
身体そのものへの深い洞察がない。
それはかれらが研究している儀礼が、現代社会から遠いものであり、
身体に着目する必要のなかった時代や地域のものだからではないか。
つまり今ほどには身体が失われていなかった時代と地域の。
共同体という身体があった時代の。

儀礼について語り出すと際限がないので、ここでは最も重要な要をシンプルに取り出したい。
儀礼を成立させる根本は、他界の出現であると思う。
そのような儀礼は、かっては共同体に支えられ、共同体にアイデンティティを与えるものだった。
だから沖縄のイザイホーのように、共同体をあげて行われ、
踊り手はプロでもないし、踊り手と観客という二分化もない。
観客なんてものは存在しない。全員が儀礼の担い手だ。
生きていくために欠かせないものであって、ただ踊って楽しむというものでもない。

私の欲望とは、
かつて儀礼が持っていた深い意味合いを、現代において再びあらたに獲得することだ。
それが不可能であると頭ではわかっている。
だって共同体がないんだから。
私たちは浮遊する、生の根拠を持たない、都市生活者だ。
個人の努力や才能でどうにか出来るようなものではない。
それでも、どうしてもそれが欲しいと、諦めることが出来ない、
その欲望の深さに喘いだ。

そして今、もちろん結論は出てはいないのだが、
納得できるというか、ある構えみたいなものが持てるようになった。
それを語るのは大変すぎて途方にくれるので、今ここでは書かないけど(息が切れた)、
次回のブログ「個人であるということ(2)」で、ほんの少し触れてみたい。

31 2017

超人間

晩年の吉本隆明氏が老いについて面白いことを言っている。
老人になることは「超人間」になることだという。
超人間というと、万能のサイボーグとか、ニーチェの超人とか、勇ましいイメージがあるけど、
ここではそういうことではない。

吉本氏は老人になってから、入院した時など、周囲がやたら親切に世話してくれて、
トイレにひとりで行こうとすると、看護人が飛んでくるのが、やりきれなかったと。
外からみれば足元がおぼつかないとしても、トイレくらいはひとりで出来るのに。
一般に世間は、老人を、若い頃を基準にしたマイナスの視点で見る。
あれができなくなったこれが出来なくなったと。

でもそれは半分しか真理ではない。
老人になると、今までとは違う感覚器官が働くようになり、
若い頃には見えなかった地平が目の前に開けてくる。
若いときの枠組からすると、衰えて、そして一段深まったということになる。
それまでとは違った、ひとつの独立した次元を生きるようになるのだ。
老人は動作がのろいけれど、そののろい動作の中で、今までとは違った世界をたゆたっている。
功利的機能的に動く必要がなくなったのだ。
記憶力がなくなったとして、どうして何もかも覚えている必要があろうか。

この吉本氏の認識は、とても舞踏の立場に似ている。

老人になると身体能力は衰え、若い時にできたことが出来なくなったりする。
筋力は落ちるし、視野は狭くなるし、感覚も鈍くなる。
でも「出来なくなった」ことにより、「向こう側」の世界が開ける。
俺が俺がで押していけなくなって初めて、世界が胸襟をひらくのだ。
これはまったくもって舞踏の立場だ。
それを「退く身体」と私は言ってきた。
世界に対して一歩引くことで、世界がいきいきと立ち上がる。

老人がそれまで全く興味のなかった俳句をやり始めたり、盆栽を始めたりするのは、
そういうこともあるのかなと最近は思う。
内観が始まるということ。
こういうことはかつては東洋やアジア圏では当たり前のことだった。
年をとることはマイナス面もあるけど、心眼が開けるというプラスもある。
なのに今では、年とることはマイナスマイナスマイナス・・のイメージばかりで、
老人本人までその気になっちゃってる。

若い時は脳と筋力の働きで生き、老人は内的な感覚で生きる。
言葉をかえれば、霊性という、世界を作っているもう一つの領域が開けるということ。

この別次元の世界について、もう一歩踏み込むともっと面白い。

人間の心の世界にはふた通りある。
ひとつはふつうに人の心ということ。喜怒哀楽とか、愛情とか思いやりとか、・・
・・・・・
もう一つは、個人とは別の独立した一つの地平・次元としての心。心それ自体。
うまくいえないが、独立したエネルギーの世界みたいなもの。
純粋感情とでも言えばいいのか。
(純粋感情についてはブログに別個に書きたいと思っています)

それは確固たるものであって、個人感情よりはるかに深い。
私は「個人感情」と「大地の情動」として区別してきた。
踊りは後者でするもので、個人の喜怒哀楽でするものではない。

なお言い方を変えると(こちらのほうが的確な気がしてる)、
それは「こころ」と言うよりは「身体の内側」である。
身体の内側は、ひとりの人間の枠組みを超えて、もう一つの深くて広い次元につながっている。
無意識の世界と言ってもいいのかもしれない。
アニミズムにも通じるものだと思う。

舞踏を始めてからずいぶんと時間が流れて、いま老人となった私には、
はっきりとその現実原則とは別の、ある広大な領域が、少しづつ感じられるようになった。
稽古していない日常の時でも、ふっとそちらの領域に移りそうになることがある。
目に見えないその領域が、とにかく新鮮で、
宗教や文学や芸術が人類の歴史の中で、
今まで手を変え品を変え追求してきたことの、原型がここにあると思う。
それがチベットの山奥にまで行かなくても、ここで体験できるとは、すごいことだと思うのだ。

私は今までの人生で特別なことは何もしていない。
海外のスピリチュアルの聖地に行ったこともない。
先住民の生活の中に入っていったこともない。瞑想経験も一度もない。
修行なんて、チベットはもちろんのこと、国内の滝行すらしたことがない。
ありきたりに働き、社会的不適応に苦しみ、たまたま目にした舞踏にひかれて舞踏を始めた。
外的な人生経験は極端に少ない。
こんなにローカルな人生を送っていても、人は飛べるのだと思う。
それはつまりは、今地球はそういう時代になってきた、ということではないだろうか。
内的世界は特別の人間のものではなくなったのだ。
特別な場所に行かなくても、今ここで都市生活の中でじゅうぶん。
そして、かつての宗教とも違う、別の形の宗教(的なるもの)が生まれる必要がある。

私は舞踏を通して年をとり、舞踏をとおして、
人間的価値ではない、もっと大きな超感覚の中で死んでいけないものかと思っている。

21 2017

モノの解体

いつだったか、稽古で面白いことがあった。
スローという稽古で、湯呑み茶碗に入れた水を10分かけて飲む、というもの。

この動作の途中で一瞬、ある生徒さんのお茶碗が、手から離れて空中に浮いたように見えた。
正確に言うと「浮いた」のではなくて、なんとも言いようのない状態になった。
お茶碗が溶けたというか、形がなくなったと言うか、
とにかくもいつも見ているお茶碗ではなくなった。
それを持つ手もなんだか奇妙だった。溶けたというか変形したというか。
お茶碗と手の組み合わせが、流れ出したというか、霧状になったというか。
そういうのともちがう。
現れたり消えたりするような現象が一瞬起こった。
(身体もまた時としてこういう状態になるのですが)
目がその現象を捉えられなくなり、それを語る言葉もない。
その後すぐに、ただのお茶碗に戻った。
「あれっ」と、ちょっと目をこすりたくなるような感じ。

この稽古のあと本人に訊いたところ、
「突然お茶碗が別のものになってびっくりした。なにか尊いものに感じられた」と言う。
彼女の体験したことと、私の見たものが一致したのだった。

モノとの関係が日常とはちがう次元に移行する。という現象だ。
そのときモノはただの物質ではなくなり、アニミズムで言う精霊=スピリットが、
事物の中でめざめた、とでも言えばいいのか。
まるで魔法のようなんだけど、本当のことだ。
滅多にはないけど、稽古を重ねていけば、しばしばなる。
事物は変容する。
これは時空のn次元化ということだとも言えるかな??

人形遣いは訓練をして、人形を生きたもののように動かす。
舞踏の稽古では人形どころか、ただのコップのような無機物でも生きてくる。
生きているように見えるのではなく、ほんとに生きてくるのだ。
モノは日常の形を解体して、もやもやした得体の知れない見たこともないものになる。
これがオカルトでも妄想でもないことが私には大切で、
この世界に何か全く新しい(古い)ことが起こっていると思う。
私にはこれこそが〈リアル〉であると思える。
この形なき世界と、現実のいつもの世界、が重なっているのが。
(今でも地球上のある地域では起こっているだろうし、人類史の古い時代にはどこでも起こっていた、たぶん)
一瞬のことなので、殆どの人が忘れてしまうし、覚えていてもただの珍しい話にしかならないが、
ほんとは「認識」の問題にするべき何かなのだ。

このような現象は、事物の内部にまで意識が届いた時に起こるようだ。
経験的に言うと。

人間の身体もモノも、ある一面ではただの物質だ。
でもその内部はただの物質ではなく、なんというか・・
形而上的なものであると思う。
このことの重要性はいくら力説しても足りない。
通常の私達の世界とは全く別の世界が、この世界のまっただなかにある。
近代的な認識がつくりあげた世界とは別の世界が。
こういうことはある種の本には書いてあるけど、大切なのは実際にいつでも起こり得るということだ。
そしてその体験を表層のオカルトにしないこと。

だからなんだ、と言われても困る(笑)
私はこれはすごく大切なことだと、カンで思っている。
内部がにゅるにゅると外に出てきたのだと。
あるいは世界の裏側が顔を出したのだと。
「地と図」の地が露出したのだと。
これは踊りのすべてではもちろんないけど、可能性のひとつであり、
世界のはかりがたさに私は打たれている。

18 2017

床稽古




床稽古の写真を掲載してみます。

床稽古については何回も書いて来ました。
まだいくらでも書けるけど、やめておきます(笑)
あんまりしつこくなるので。

この写真は、床にしばらく横になってから、立ち上がろうとしているところです。
まるで床下から引っ張られているように、なかなか立つことが出来ません。
重力につかまってしまった、という感じでしょうか。
意識と無意識の境界にいるというか、
体が金縛りにあったように、思うように動けない。
でも自由意志も働く。
朦朧としているけど、ちゃんと理性も客観性もあります。
いわく言い難い不思議な状態。
身体はひとりの人間というよりは「場」の存在になり、大地の粒子に溶けているようです。
どこかゾンビっぽい。半分は死んでいるようなものなので。
やっている本人はとても気持がいい。
日常性や社会性から抜け出て、人間であることも解体していくよう・・
蛹から液体状に抜け出ていくような、新生の感じもある。