先日、日本映画学校の学生さんにインタビューされた時の話。
身体というのは最もプリミティブなものである。
他の表現ジャンルは、
たとえば油絵具がなければ油絵は存在しないし、
カメラがなければ映画も写真表現も存在しないし、
印刷機械がなければ文学は万人のものにはならない。
でも身体表現は太古から素材が変わらない。
この身体ひとつ。
この身体には太古からの記憶が刻まれている。
素材が自分自身であるという特殊性の意味すること。
そのエクスタシーは極限のものであり、
苦痛も又おおきい。
舞踏はプリミティブを全面に押し出した。
だが身体の未来形はなかった、のだと思う。
身体の未来形とは何か。
そんなものの必要はあるのか。
・・・・きっとあるのだと私は思う。
なぜなら人間はどこからか来てどこかへ向かっているからだ。
SF映画が人を夢中にさせるのはそのせいだろう。
未来といっても必ずしも直線的なものではない。
古代と未来はループするものだ。
テクノロジーを批判してプリミティブに身体の優位を説いても、
ものごとはそれほど単純じゃない。
身体は時代によって異なる。
身体の未来形と言えば、
映画「マトリックス」のようなものがある。
人はあの映画に夢中になった。
コンテンポラリーダンスの先鋭な部分は、
あのマトリックスみたいな動きをしてみせた。
だがどんなに巧みに動いてもワイヤーアンションにはかなわない。
まじめくさったアートよりアレグリアや中国雑技団のほうが面白い。
そして永遠に解けない謎のような身体を鼻先につきつけられる。
何をどうすれば身体にめぐりあえるのか ?
私にもわからない。
身体をやっているのだから、
この身体を信じていればいつか価値あるものにめぐりあえる、
そう素朴に思ってひとり稽古に励んでいた頃、
押井監督の「攻殻機動隊」を見てショックを受けた。
身体は素朴ではない。
身体とても時代のパラダイムのなかにあるのだ。
自分はどうすればいいのか・・・なにひとつ出来ない。
マトリックスのような動きをしていた人達はすぐに行き詰ったようだ。
コンテンポラリーのその後について私は知らないのだが。
私はどうしたかと言うと、
結局 自分の人生に立ち戻った。
生きてきたことを信じられるかどうか、
と自分問うてみたのだ。
信じられた。
それは「表現」とかそういうものとは別のレベルの、
なにか「凄いもの」だった。
(強いて言えば、それはスピノザ的なものだった 神的一元論)
この場合の人生とは、
素朴なものではない。人間中心主義ではない。人生なんて誰でもやっているが「信じられる」という人はあまりいない。
実人生を支えている無限の領域のことを言っている。
そして身体にこの無限を見出すこと。それが私の求めるものになったのだ。
こんなすごいことを言って、
それじゃー最上はどんな凄い踊りをするのかって、
すごいことはしない・・・・
なぜなら身体とはそういうものだからだ。 目にみえてすごいものではない。身体は地味だ。みごとな動きなら武術やスポーツのほうがすごい。
だが身体とは何かという問いかけがそこにあるのかどうかは、
見る人には見える。たとえ見えなくても、
何かひとつでも体験してもらえたら本望だ。
公演をやるたびに謎は大きくなる。目の前の土地は広大になる。
私はエクスタシーのうちに永遠という領域に溶けていく。
そして溶けながら何くわぬ顔をして現実に、
瞬時に舞い戻ってくるのだ。
身体というのは最もプリミティブなものである。
他の表現ジャンルは、
たとえば油絵具がなければ油絵は存在しないし、
カメラがなければ映画も写真表現も存在しないし、
印刷機械がなければ文学は万人のものにはならない。
でも身体表現は太古から素材が変わらない。
この身体ひとつ。
この身体には太古からの記憶が刻まれている。
素材が自分自身であるという特殊性の意味すること。
そのエクスタシーは極限のものであり、
苦痛も又おおきい。
舞踏はプリミティブを全面に押し出した。
だが身体の未来形はなかった、のだと思う。
身体の未来形とは何か。
そんなものの必要はあるのか。
・・・・きっとあるのだと私は思う。
なぜなら人間はどこからか来てどこかへ向かっているからだ。
SF映画が人を夢中にさせるのはそのせいだろう。
未来といっても必ずしも直線的なものではない。
古代と未来はループするものだ。
テクノロジーを批判してプリミティブに身体の優位を説いても、
ものごとはそれほど単純じゃない。
身体は時代によって異なる。
身体の未来形と言えば、
映画「マトリックス」のようなものがある。
人はあの映画に夢中になった。
コンテンポラリーダンスの先鋭な部分は、
あのマトリックスみたいな動きをしてみせた。
だがどんなに巧みに動いてもワイヤーアンションにはかなわない。
まじめくさったアートよりアレグリアや中国雑技団のほうが面白い。
そして永遠に解けない謎のような身体を鼻先につきつけられる。
何をどうすれば身体にめぐりあえるのか ?
私にもわからない。
身体をやっているのだから、
この身体を信じていればいつか価値あるものにめぐりあえる、
そう素朴に思ってひとり稽古に励んでいた頃、
押井監督の「攻殻機動隊」を見てショックを受けた。
身体は素朴ではない。
身体とても時代のパラダイムのなかにあるのだ。
自分はどうすればいいのか・・・なにひとつ出来ない。
マトリックスのような動きをしていた人達はすぐに行き詰ったようだ。
コンテンポラリーのその後について私は知らないのだが。
私はどうしたかと言うと、
結局 自分の人生に立ち戻った。
生きてきたことを信じられるかどうか、
と自分問うてみたのだ。
信じられた。
それは「表現」とかそういうものとは別のレベルの、
なにか「凄いもの」だった。
(強いて言えば、それはスピノザ的なものだった 神的一元論)
この場合の人生とは、
素朴なものではない。人間中心主義ではない。人生なんて誰でもやっているが「信じられる」という人はあまりいない。
実人生を支えている無限の領域のことを言っている。
そして身体にこの無限を見出すこと。それが私の求めるものになったのだ。
こんなすごいことを言って、
それじゃー最上はどんな凄い踊りをするのかって、
すごいことはしない・・・・
なぜなら身体とはそういうものだからだ。 目にみえてすごいものではない。身体は地味だ。みごとな動きなら武術やスポーツのほうがすごい。
だが身体とは何かという問いかけがそこにあるのかどうかは、
見る人には見える。たとえ見えなくても、
何かひとつでも体験してもらえたら本望だ。
公演をやるたびに謎は大きくなる。目の前の土地は広大になる。
私はエクスタシーのうちに永遠という領域に溶けていく。
そして溶けながら何くわぬ顔をして現実に、
瞬時に舞い戻ってくるのだ。