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17 2013

水の力・キリストの血

稽古の具体的内容とその意味合いについて書こうと思いつつ、なかなか出来ないでいました。
今回は今までの稽古で印象深かったことのひとつを書いてみたい。


日常動作をただひたすらゆっくり行う、という稽古で、
バケツに入れた水に手を入れる、
座った姿勢で目の前のコップに入れた水を飲む、
というような、水にまつわるいくつかの稽古をした。ひとつに10分間かけて。

稽古の前にはいつもその稽古についての説明をする。
私は「水というものの元素としての、生命を養う源泉としての貴重さを思う」ように話した。
コップや水が今目の前にあることへの驚きを思い出してほしいとか。
又、坐っている時の姿勢のたたずまいの大切さや、身体には前面だけでなく360°オールラウンドに空間があるのだ。背後にも空間はある。
空間は自分の身体よりも先にあり、自分の体は空間の中にあり、いきなり身体があるわけではない。空間に対して一歩自分の身をひいてみること。
身体の中心を貫く軸の上方は天まで下方は地球の中心まで本来は届くものだ。
といったことだ。
これらの言語による説明は大切だ。その言葉を聞いただけで身体は変わる。
おおげさな言い回しのようではあるけど、人の心は思いがけず素直で厳粛なものを持っているらしく、「なにをおおげさなこと言ってるの」的に受け止める人は今までいなかった。


Aさんはバケツの水に手を入れたとたんに嗚咽し始めた。
水の中で手をゆっくりと動かしてかきまぜるようにした。
Aさんの動作には空疎なところが全くなかった。
その時の顔は、眼差しが遠く忘れられないほど美しかった。白い光が出ていた。
手を水から出すとその濡れた手で自分の顔と首をゆっくりとなでた。
終わってから感想を聞くと、
「水の中に手を入れる前、水の表面に手のひらが近づいたとき、水の発する空気感を手のひらではっきり感じた。水に手を入れた瞬間、自分にとって何が問題なのかが突然わかった。それまではわけがわからずただイライラしていたけど。」
「自死した友人がこの稽古をしていたら死ななくて済んだのにと思った。間に合わなかったのが口惜しい。」と言った。
私はAさんの、このたった1回の稽古に対する洞察力に感動してしまった。


Bさんは目の前のコップの水を飲むという稽古で。
背後を意識するためか、両腕を大きく広げて天井を仰ぎみて、一生懸命空間を把握しようとしていた。
その動作のなかで空間が大きくひろがったことに息を呑んだ。
Bさんは水を飲みコップをもとに戻した。この一連の動きはみごとなパフォーマンスであり決して再現できないなにものかだった。


それを私と一緒に見ていたAさんが言った。
「Bさんの背後に杉の木のような針葉樹がたくさん立ち、ざわざわとざわめいていた。」
後で聞いたら、Bさんはその時、(背後を意識するために)背後にたくさんの人間を想定して、その人達の代表として自分は動くのだ、という意識でやったということだった。
何を想定したかの具体的な内容はきっかけにすぎない。
Bさんが背後の空間を意識しようと必死になり、具体的になにかをイメージすることで空間が変容したことが重要だ。
かっこよく言えば、その時Bさんの背後に異空間が生成し、ざわめき立ったことが重要だ。
そのざわめきが見る者を鷲づかみにした。
そのざわめきこそが生成の息遣いだ。


このような出来事を私は「小さな奇跡」と呼んでいる。
舞踏の稽古では稀にではあるが起こることだ。
ベテランであろうと素人であろうと関係ない。
ダンス経験があるかどうかは問題ではない。
おそらく玉三郎さんでも知らない身体の世界だ。


奇跡は二度と起こらないから奇跡という。
このような経験は追い求めると逃げて行く。
ダンス経験があるほうが奇跡は起こりにくい。
なぜなら体を動かすことに慣れているから。
素人は言われたことに素直に忠実になろうと必死になるので、思いがけないことが起こりやすいようだ。


このようなことはしょっちゅう起こるわけではないし再現も出来ないが、
こういう時間を稽古している者どうしが共有することが大切と思う。
再現できないから価値がないのではない。
人は異世界を体験すると強くなれる、と私は思っている。
この現世だけが価値だと思うと、人は生きる意味を見失いニヒリズムに陥る。
「無限を生きるときに人は真に生きる」のだ。


これらの稽古の主眼とするところは、
「身体そのものになろうとすること」だと思う。
正直のところ、なぜ自分がこのような稽古をするようになったのかは正確には思いだせないのだが、段々と淘汰されて残った稽古法だ。
100%身体そのものになることは不可能だけど、ある設定をする(枠をつくる)ことで身体以外の日常的自意識を持ちにくいようにする。
そうすると『身体がその知恵を総動員する』といったことが起こるようなのだ。
身体はいきいきと知恵を発揮して、誰もが予測できないようなことをやってのける。
そのとき動作する者は、ふだん全く体験したことのない全一感を感じる。
経験のないことなので「言葉に出来ない」。
だけど楽しい。
「なにこれ ?」と誰しも思うようだ。

身体が身体になる時、そこに空間が出現する。日常とは違う空間が。
それは時として、ざわめくようでもあり、ふるえるようでもあり、密度をもってうねるようでもあるのだ。



コップの水を飲む、バケツの水に手をいれる。
このふたつの稽古はたまたま水にかかわるものだった。
この稽古を見ていて、私はあらためて「水の浄化の力」を感じた。
その連想で「水分を口に入れる」という行為を再認識した。

水分を口に入れるというのは、
ヤクザが「かための盃」をかわしたり、結婚の儀式で三三九度の盃で酒を飲んだり、
儀礼には欠かせない素材だ。
(この場合は水でなく酒だけど)
人生の大きな節目には人は儀礼を必要とするものだ。
そして私が思い出したのは、キリスト教の儀礼において、信仰者は「キリストの血」としての葡萄酒を飲む、ということだった。
稽古において水を飲む生徒さんを見て、私はこのことの意味があらためてと感じられた。
なにかを口にいれる、ということの厳粛さとエロスの一体化。
それを儀礼にすることの深い意味。
これらのことは舞踏の本質にとても似ている。





さあ 飲み干せ キリストの血

   さあさあ まみれよ 水の力に

     身体の内も外もいっしょくたに

      その野生の儀礼がおまえを生かす

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