14 2015

永生

私の知り合いに、自分の身体データをロボットに移して「永遠に(ちかく)生きたい」と言っている人がいる。
そういうロボットが開発されればいいと。
自分の身体が死んでも自分のデータは生きるのだから。
この場合のデータとは自己同一性みたいなことなのかなと思う。

これは私には全く理解できない価値観であった。
そもそも私は永遠に生きたいと思ってない。
現在の人間の寿命が80才だとして、
それが120才になり200才になれば満たされるのか?
おそらく1000年生きても満たされはしない。
永生とは数値的な時間の長さではないだろう。
数値的に永遠に生きたいと思うのは、たぶん、
その人が十全に生きた体験がないということなのだろう。
その満たされなさが、生の無限の時間的延長を望ませる。

もちろん私だって決して死にたいとは思わないし、
生物の本能として出来れば長く生きたい。
でもそれとこれとは別だ。
ここにはもっと根本的な問題がありそうだ。

永生とは誰もが求めるものだと思う。
それを身体の外部に反映させると、時間的長さということになる。
不老不死というやつだ。
それも10年長く生きたいとかいうレベルでなく、
できれば1000年くらい生きたいと願う。
これは身体の外部に永遠を求めるという発想だ。
外部に求める限り、その欲望は果てしがなく、いつまでも終息はしない。

私が思う永生とは身体の内部にあるものだ。
内部であれば数値とは関係ない。
極端な言い方をすれば、身体の内部は、
一瞬のうちに1000年を生きられるわけだ。
まぁこれはものの言い方であり、実際にはそれほど鮮やかなものではない。
(もしかしたら一瞬のうちに100年くらいかもしれない。10年かもしれない。
そもそも数値化できないのだけど)
でも原理的には言える。
身体の外部に延長を求めるような、虚しさや空回り感はない。
身体の内部には永遠領域からの風が吹いている。

こんなことが多くの人に共有されれば、それは内的革命とも言えるものだろう。
もしかすると、うんと大昔には、例えば有史以前とかには、
この永生の観念はそれほど珍しいものではなかったのかもしれない。
なぜそう思うのかと言うと、
私自身はそれを信じられるからだ。
かつては私のような人間がもっと多くいたのだろうと思える。

悟りを開くとかそういう問題でなく、
内面さえあれば外部はどうでもいいということでもなく、
現世はつまらなくて彼岸は素晴らしいということでもなく、
ただもう少し内面の価値を見出すだけで、
人間はもっと生きやすくなるだろうと思うのだ。
内面の価値とは永生につながるものであり、
他界とか宇宙とかを身体の内部に持つということだ。
宇宙には生も死もあり、どちらか一方ではなく、
1000年生きたから幸せとか得したとか、そういうことはないだろう。
身体を垂直的に降りていくことは、
外部を1000年延長するより確実に永生の手応えがあると思う。
これを観念的であると言える人はいるのかな?
それを言うなら、そもそも宇宙とは観念ではないのか?
時間とは観念ではないのか?
生と死こそ見事に観念ではないのか?
私達ひとりひとりはマボロシではないのか?

4 Comments

一読者  

バランス。

ご無沙汰しております。
私はこのエントリーのお話し、バランスの問題を内包していると思います。いずれもっと深く切り分けてみたいなと思いますね。

2015/06/24 (Wed) 02:21 | EDIT | REPLY |   

最上  

内と外

一読者様
バランスとは内と外のことでせうか?
外はわかりやすいけど内はその存在も知られていないので、ここでは内を強調しましたが、どちらか一方ということはありませんです。

2015/06/25 (Thu) 17:03 | EDIT | REPLY |   

一読者  

十全に生きるという事の内容なんですが、内と外なのかもしれませんね。
内の部分って、本当は皆知っているし識っていたんじゃないかなあ、と思うのです。
とか言いながら私もすっかり思考から抜け落ちていた訳ですが(苦笑)

2015/06/25 (Thu) 23:38 | EDIT | REPLY |   

最上  

内と外

一読者様
もともとは内と外は別のものではなかったのでしょうけど、時代がくだるにつれて外ばかりになってきた、のだと思います。内のない人はいないでしょう。

2015/06/27 (Sat) 07:46 | EDIT | REPLY |   

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