20 2015

南島論・アフリカ的段階 その他

私は身体と取り組むことで、南島論やアフリカ的段階という問題性に行き当たっている。
このことについて、いつか書きたいと思いつつ、
そのテーマの遠大さ、深さ、知的認識の困難さのために、書く事ができない。
こんな問題は到底私の手に負えるわけがない。
にもかかわらず結局はこのテーマが、私の舞踏のテーマであることは間違いない。
私は学者ではないので文献研究などは出来ないし、その関連の読書も最低限である。
それ以上書物に触れることが得策とも思えない。

学者は身体をやらない。
身体をやったら本など読む時間はなくなるだろうし。
身体をやっている者はそんなに本は読めない。
なぜと言って、本の情報の海にはいりこめば、
手足をもがれたように舞踏はできなくなる、と本能的にわかっているからだ。
ひとりの人間に何もかもは出来ない。

もし私が身体に取り組んでいなかったら、
おそらく南島論もアフリカ的段階も、
こんなに痛切な問題とはなりえなかっただろう。
舞踏を始めた当初は、こんな事態は予想だにしなかった。

考えて見れば、
アフリカ的段階が人類史の母型であり、
身体が人間の成すあらゆる営為の母型であることを思えば、
このことは、あまりにも当然のなりゆきだったのかもしれない。
しかしこの当然のシンプルな道筋は、
なんと困難であり、大きな犠牲を私に強いたことか。

ゼロから身体をたちあげなくてはならず、
私なりの稚拙な方法で世界中の舞踊について、
地理的にも時間的(歴史的)にも見つめてきて、
ただ嗅覚をもって原始的に歩き、悩み、
見えないものを見つつ、
踊るとは何かを考え続けてきた結果、
こんな場所に来てしまっていた。

今はごく簡単に述べておきたい。
 
  身体は人類の歴史の外にある。
  それはいまだ黄金の眠りのなかにあるが、
  かつては存在していたことを、
  想起の形で私達に気づかせようとしている。
  時間的に遡ることで、未来を暗示するような、
  そのような事態として、
  身体は今、あらたに誕生を待っているのだ。

私はずいぶんと歳をとったけれど、
おそらくは歳をとることが必要だったのだと、今ならわかる。
こんな場所に来るには時間がかかるものだ。
誰にも知られることなく、ひとり歩いて来たのだ。
そして目の前には未踏の大地が広がっている。

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