01 2015

生きながら死ぬ。

先日わたしの踊り(舞)を見たある人が、
「能よりも内面的で凝縮されている」
「まるで死体が踊っているようで人間の動きではない」
という感想を述べた。
ふだん自分の踊りの感想を聞くことが少ないので、こうして言葉にしてもらって嬉しかった。
彼は舞踏オタクではないので、この感想はとても素直だと思った。

この感想を聞いて、私のなかでいろんな思いが巡った。
まず「能よりも凝縮」という言葉だけど、正確な感想だと思う。
たくさん能を見ているわけではないけど、
能だけでなく一般に伝統芸能に対して、私は物足りなく感じている。
おおげさな権威付けでもったいぶっていると思っている。
こういうことを言うと、なまいきとか思われるのはわかっているけど、
だからといって言いたい事を我慢したくはない。
伝統芸能って保護された安定構造の中にあるので、生成の力がなく平板な印象がある。
もちろん、にもかかわらず大きな意味を持っているとも思っているが。
(おもに資料としての意味)
これについては語りだすと長くなるのでここではこれくらいにしておく。

「死体」云々。この言葉を聞くとすぐさま、
土方さんの「舞踏とは突っ立っている死体である」という名言を思い出す。
私は暗黒舞踏は好きではないので、自分が土方さん風な言い方をされるのが面白かった。
まぁ私は暗黒舞踏を死体と思ったことはないが。死体を演じているだけで。

私にとって踊るとは「生きながら死ぬ」ことなんだな、とあらためて思った。
これは昔だったら宗教の役割ということになるのだろうな。

「生きながら死ぬ」というのは、
「死を怖れて、死の状態を先取りして生きる」
「死んだふりして生の苦しみを忘れる」
というのとは違う。
身体の中に他界を見出す、ということではないかと最近思っている。
それはニヒリズムでもペシミズムでもない。
現実世界が他界(宇宙性)に支えられているということの具体性、だ。
身体のなかに他界を見出すということは、生きることの根拠を見出すということだ。
堂々たる生をそれはプレゼントしてくれるのだ。
それを具体的に実践するのは大変なエネルギーがいるのだけど。

私が死体のようになっている時、何を感じているかというと、
「生の圧倒的なエクスタシー」である。
他界を呼ぶことで、深く根源的な生がエクスタシーとして訪れるのかなと思う。
そして踊ることは他界と現実界を行き来することであり、
他界の息吹を現実界に運ぶことである。
踊り(舞)のもっとも原初的なあり方は、そのようなものだと思っている。
身体は他界の受け皿として最強のものである。

宗教なき時代、
他界の存在を忘れた死生観なき時代、
生が空洞化している時代に、
このことは何か大切な意味があるのではないか。

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