15 2015

「よみがえる日本語」ヲシテ連続講座第四回のご案内

● ヲシテ連続講座第四回 目白庭園にて 7月18日(土)18:30〜20:30
● 今回は明治書院「よみがえる日本語Ⅱー助詞のみなもとヲシテー」出版記念講座となります。

どなたでも参加できますが、原則予約制となっています。
ユーモアたっぷりの気楽な講座です。ぜひおいでください。
詳細はこちらをご覧ください。
 
 → ヲシテ講座のご紹介
 → 連続講座よみがえる日本語

参加希望者はこちらまで。
 
 → info@walhallahlaw.com

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ヲシテとはいわゆる神代文字といわれ、怪しげなオカルト的なものと捉えられてきた。
私自身、それをオカルトとして考え自分には無縁なものと思っていた。

だが身体をやればやるほど「言葉の根源」が気になる。
身体をやっていると自分の身体が日本人であることが、
つまりは身体と土地、身体と歴史の不可分性が見えてくる。
同時に、自分の身体が日本語と深く結びついていることもわかってくる。

簡単に言うと、
西洋のダンスは西洋の文字のアルファベットとみごとに対応している。
アルファベットの一文字、aとかbとかzとか、それ自体に意味はない。
つまり事物マテリアルと記号としての文字は無関係だ。
その文字の組み合わせである言葉にも事物との対応はない。
これがソシュールの言語論であるという(よく知らないが聞くところによると)。
でも例えば漢字ひとつひとつにはそれに対応するマテリアルがある。
(漢字以外はここでは省く)

この違いはそのまま日本(アジア・東洋)の舞踊と西洋の舞踊の違いになっている。
西洋のダンスは「人体の幾何学的ムーブメント」であり、記号の組み合わせ。
そこには土地も事物との対応もない。
日本の舞踊の動きは、所作から始まって、すべての動きに事物性意味性がある。
ときにはそれは漢字であり時には平仮名だったりする。
西洋ダンスはリズムが平板で間(ま)がない。だってただの記号だからね。

西洋をもっと歴史的に遡れば言語も身体も違う面が出てくるかもしれない。
そういう精密な実証性はここでは省く。私の任ではない。
さしあたって「今は」ということで書いている。
そしてこの「今」こそが重要だ。
今わたしたちは生きていて、今わたしたちは不自由な文化の中で行き詰まっているからだ。

アルファベットと漢字、という程度の比較で身体性と言語を考えていた私だったけど、
ここでもうひとつ問題が出てきた。
「音声」という問題だ。
文字・言葉には目で見る形という側面と、音という側面がある。
そして音という側面は「言葉の身体性」ということになる。
形にも身体はあるけど、音のほうがより原初的でなまなましい。
音としての言葉は目で見る言葉よりも起源が古そうだ。

音の問題はどうなっているのだろう。
それがずっと気になっていた。
例えば「あ」という時、「き」という時、
その身体性は異なる。
それじゃ「あ」と「き」の意味性はどうなっているのだろう?
たまたま声帯の使い方が違うだけなのか。
どうもそうは思えない。
人類がはじめて「あ」と言い「き」と言った時、そこになんの違いもなかったとは考えられない。
音声の裏には身体感覚の違いがあったはず。
外界を認識する時の区別があったはず。

とまあ、そんなことをとりとめもなく考えていた。
踊りをするのにそんなことを考える必要はふつうはない。
でも私はそういうところまで身体とつきあってきてしまったのだろう。
動きとはなんなのかと考えるうちに、言語の発生に行きついてしまったらしい。
気がついたらこんなところにいた、という感じだ。

話はあちこちになる。
初めてヲシテ文字を見た時、
(それは文字というよりは図像というようなものだったが)
それが動いて見えたのが驚きだったのだ。
ふるふると震えていて、見ているとクラっとした。
そしてその文字から音が立ちのぼっていた。
うわ〜ン、とか、ぶ〜ん、とか、音響のようなものが。電子音のようなものが。
私は体がぞくっとして思わず目をそむけてしまった。

それが私のヲシテとの出会いだった。
それでもしばらくは近づく気はなかった。
こんなものにかかわると、自分の舞踏を考えるのがますますめんどくさくなると思った。

ところが、縁というものか、結局はこのめんどくさいものとかかわることになり、
今ではヲシテ研究家の斯波克幸さんが私の稽古場に通っている(笑)

長くなったので細かいことは省く。
いま思いつくままに、ヲシテの何が気になるのかをちょこっと書いてみる。

まずヲシテは表音文字であり同時に表意文字であること。
これだけでもめまいがする。
私のこれまでの常識を覆された。
表意であり表音?  そんなことありえるのか?

文字のひとつひとつ、「あ」にも「き」にもその音の背後に、
人間が世界を発見した時のある種の「イメージ」がある。
このイメージというのは私の考える身体感覚に近い。
つまり音ひとつにも認識の様相があるということ。

私にはまだまだヲシテはよくわかっていないのだけど、
ここには、世界=身体=言葉 という人間の自己定位の始原的なありようがある。
認識における胚のようなものが。

身体があらゆるジャンルの表現における胚のようなものであるとき、
身体が「存在」における第一要因であるとき、
この 世界=身体=言葉 の発生を知ることは大きな意味があると思うのだ。

なぜオカルトだったヲシテが今、言語学としてあらたに生まれ出ようとしているのか。
なぜ私のようなおかしな舞踏家が悪あがきしているのか。
もしかすると時代が変わろうとしているのかと、
遠い前方から、かすかに時代の霊の足音がきこえるような気がしてしまうのだ。

2 Comments

一読者  

こんにちは

最近のエントリーは、私にはとても理解りやすいです。理解の深度は気になるところでは有りますが(笑)
表音であり、表意である、と言われると、真っ先に漢字を思い浮かべていましたが、少なくとも日本人には、かりそめの姿というほうが正確、なんでしょうね。
「音と身体」個人的には、匂いと身体という関係性と同じくらい濃いんだろうなと思います。

2015/07/26 (Sun) 14:20 | EDIT | REPLY |   

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日本語

一読者様
自分ひとりだといつまでも解決できない問題が、人との出会いでパズルの最後のピースが見つかる。そういう感じで古代語に出会いました。
漢字は自分の体と違和感が残るけど、古代語は身体としっくり来ますね。
長い時間を一気に越えてしまう身体の不思議。

2015/07/27 (Mon) 07:00 | EDIT | REPLY |   

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