22 2015

光源氏の青海波

私は源氏物語の面白さがわからない、日本の古典的教養のない者だ。
でも源氏物語で一箇所だけ気になるところがある。
光源氏が自分の恋い慕う女性の前で舞を舞うところ。
「青海波」という舞楽の演目で、当時の貴族の男子の必須課題の舞だったとか。
字のごとく波の動きを表現したものらしい。

光る源氏の青海波の舞は、この世のものとは思えぬほど美しく、
人間離れしていて薄気味悪いほどだったとか、書いてある。
(興味ある人はネットで調べればたくさん知識が出てきます。
引用しようとも思いましたが、長いのでやめました)

一体どんな舞だったんだろう、と思う。
作品の描写だけではわからない。
文学的に大げさに記述してあるけど、「身体の問題」としての記述が一切ないから。
当時は上流階級に共通の舞の教養があったから、この程度の記述で十分だったのだろう。
でもこれを読んでどんな舞なのかわかる現代人はいないと思う。
源氏物語を読む人もそんな問題意識はない。
「光源氏がすごい舞を舞った」と通り一遍に受け止めるだけ。
ほんとは、具体的にどんな舞なのかイメージできなければ、
この部分の記述は意味ないように思う、私は。
言うまでもないけど、ふつうに、
型として受け継がれている舞楽の動きを問題にしているのではない。
発生レベルでの舞のことを言っている。

いつも私は舞踊は歴史的資料がない、と嘆いている。
源氏物語のこの部分は貴重な資料だと思うが、
しかし、自分でものすごく踊り込んだ人にしか具体的動きは類推できない。
社会的には「舞の具体性」は存在していないと感じる。
それは言語的教養の一部として処理されるだけ。

ある古典学者がこの部分の源氏の舞について、
「おそらくはドゥルースの言う〈器官なき身体〉だったのだろう」と言っている。
私もそう思う。ここまで言わなければ意味ない。
(これは私の言葉で言えば「アニミズムの身体」だ)
でもこの学者は「器官なき身体の舞」がどのようなものなのか、具体的に想像出来ているのだろうか。
はなはだギモンだ。

何が言いたいのかと言うと、
こと身体や舞踊に関しては、このように、
具体性がないまま、なんとなく語られることが多いということだ。
それでなんとなく了解事項になっていく。実質がないまま。
舞踊は生きたライブ表現であり、具体性が命だ。
なのにほとんどの人間が具体性を問題にしない。
少なくとも、源氏がどんな舞をしたのか皆目わからない、という自覚が欲しいよ。

古典芸能はたしかに一部ファンが具体的に語ることはある。
でもそれは「通(つう)の世界」となって、これまた本質からはかなり逸れる。

舞を、始原において、発生において語る視点が欲しい。
私は、及ばずながら、そのように語るようにいつも努力している。
金魚鉢の中で自己完結しないということだ。
「そんな偉そうに言うなら、あなたは器官なき身体としての源氏の舞が想像できるのか」
と問われたら「できる」と答えます。それだけの苦労をして来ている。

哲学好きな人がドゥルースの器官なき身体を口にするなら、
それがどんなものなのか、具体性において想像して欲しい。
「器官なき身体」という言葉を舌の先で転がすだけでなく。

とまぁ、偉そうに書いてきたけど、
私自身、自分が舞で苦労しなかったら、こんなことは考えなかっただろう。
だから人のことは責められない。
でも問題提起はしないと。
「身体は語られないことか当たり前になりすぎている」と。

源氏物語の時代には身体など問題にならなかっただろうね。
そういう概念がおそらく存在していない。
舞楽が当たり前であり、身体から問題を起こすことはない。
身体とは新しい概念なのだ。


補足: 源氏の青海波の舞を思うとき、私はいつも山岸涼子氏の「日出処の天子」の
   厩戸皇子の舞を連想してしまう。山岸さんには舞踊に対する鋭い直感があると思う。

2 Comments

一読者  

ご無沙汰しております。
今年に入ってからというもの、舞踏とは全く違った角度から生の根拠を追求する作業に追われていました。
詳細はさておき、その過程で丸3日以上行灯程度の光の中で殆ど何もせずに過ごしたのですが。外に出て普通の生活に復帰して驚きました。物の見え方が違うのです。特に布の質感などは明らかに違いました。敢えて科学的な表現をするなら、色彩に関する感受性の分解能が一桁上がった感じですかね。(視力は上がりませんでしたがw)
近代以降、我々はひたすら物理的視界を明るく、光量を増やす方向に努力してきましたが(あくまで一般的に、です(^_^; )、その行為は、判定可能な範囲以上に脳や眼に負担を強いていると思います。言語や思考に頼む理論の追究も、もちろんそうなのでしょうが、そういった環境や生活スタイルも、このブログで扱っている問題に対する影響が大きいのではないでしょうか?

2015/07/24 (Fri) 06:16 | EDIT | REPLY |   

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眼球前面文化

一読者さま
そうですか、、貴重な体験ですね。私も少しそういう体験をするべきかと、悩んだりもするけど、横着なものでスルーしています。
現代人は「見る」ことに偏重していますよね。映像の刺激が多すぎて、私はあまり見たくないです。というか見ても何も感じないことが多いんですよ。内的な体験に較べると、映像の刺激は意外に力が弱いなと思います。端的に目が疲れる(笑)
身体表現が人気がないのは、現代人がひたすら映像刺激を追い求めているからでしょうね。身体を見る力がないんですよね。頭のいい学者さん達は、言語世界で自己完結してしまいますしね。身体を取り戻す一大文化運動が必要ですね(笑)

2015/07/25 (Sat) 06:21 | EDIT | REPLY |   

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