27 2015

としをとること

最近としをとるってことについて、よく考える。
あたりまえだよね、もう70才ちかいのだから。

歳をとると成熟するとか、霊性が高まるとか、
そういうことはほんとなんだけど、それを真に受けてくれる人は少ないんだろうね。
霊性が高まる、という方向に歳をとる人も実際には少ないだろうし。
私の場合は舞踏をしているので、たまたま、
霊性と加齢が重なるので、ありがたいことだと思う。
身体をやっていると「気持ちは若いつもりでも体は衰えて、そのギャップが調整つかない」
という状態はそんなにひどくない。
やたらに体を鍛えるという発想もない。
順調に歳をとれる。完全じゃないにしても。
身体の知恵をつね日ごろ尊重しているから。

自分の身体の知恵を信頼できるかできないか、ってのは、
歳をとればとるほど大きな意味を持つ。
歳のとり方も身体が教えてくれる。
頭でいくら考えても、よくわからないことも身体は教えてくれる。
それは「体が衰えたからムリしないように」というレベルのことでなく、
霊性において、考えるよりは自然に身体が賢くなっていくのがよい。
本来は、がむしゃらにならなくても、歳をとれば、
身体の内部が勝手にめざめていくものなのだろう。

霊性について、哲学書などを読んで認識を深めていくことも力になるが、
それだけだと片手落ちな感じがする。
身体からのアプローチも必要で、そのアプローチは、
具体的な生きているわたしそのものに働きかける。
毎日の生活のなかで働きかける。
事物を手に持って実際に動かすように、人の体にじかに働きかけるのだ。

私のところに稽古に来ている人達は、皆わたしよりずっとずっと若い。
私のいる「老人の場所」がどんなところか想像もつかないだろう。
以前はそのことが私の孤独だったんだけど、今はそういうことはなくなった。
たぶん私の老人の場所が確定してきたからだろう。
それなりに居心地がよい。
自分が生きてきた道のりの意味を、若い人達が教えてくれるみたい。
自分は恵まれていると思う。
「老いの孤独」みたいな悲惨な感じはしない。
若い人達がいてくれるおかげで順調に歳をとれる。
それに年齢とは別に「仲間だ」という気持も持てる。
踊るという行為は魂にかかわるので、細かいことはあまり気にならない。
歳が違うとか、価値観が違うとか。
価値観なんて違っても踊ることが好きなら、そこで結びつけばいい。
価値観なんてひとりひとり違うのが当たり前だ。
こういういい状態がいつまでも続かなくてもべつに構わない。
たぶん物事はなるようになるからだ。
どう転んでも私でありつづけるに違いない。

昔は共同体が「老い」と「死」のかたちを与えてくれた。
老人には老人の役割があり居場所があった。
共同体がなくなると、人は、自分で歳をとり、自分ひとりで死んでいくしかない。
歳をとったり死んだりすることって、本来はひとりで出来ることではない。
街を歩いていると、歳のとり方がわからない老人が、
時間を持てあまして群れをつくってウロウロしている。
税金を使って遊び歩いている。
最近、老人が切れやすいのも、
自分をどう扱っていいかわからなくてイライラしているからだろう。
口には出さなくても、「まだ生きているのか」と自分は思われていると薄々感じている。
もういいかげん死んでくれないと税金の無駄遣いだよと。
自分の命が評価されていないことを老人は知っている。

児童文学の作家新美南吉は、
「人間のするもっとも美しい行為は、お爺さんお婆さんになることだ」
と言っている。
でもこの言葉をほんとに納得できる人は今は少ないだろう。
この言葉はべつに負け惜しみではなく、ほんとのことなのだ。
それは神様から与えられた命を全うして生き抜いた、という勲章なのだ。
ほんらい老人は美しいものだ。
それは東洋と日本にずっとあった文化だった。
その結晶が「翁」という概念だ。
「生成」という生の根源を老人の姿で現実化した。
これは全く、西洋には思いもつかない人間の知恵の結晶だったと思う。

でも今はそんな文化は影も形もない。
どうしてこんな時代になってしまったのだろうと思う。
それは西洋の進化思想や資本主義の肥大による害毒だ、という一般論はひとまず置くとして。

歳をとるに従い、私の内面はどんどん変化している。
半年前の自分はもはやいない、というくらいに。
欲しくてたまらなかったものがもう欲しくない。
おもしろかったことがもう面白くない。
若い人達と同じようにはしゃげないのは当たり前だ。
だってたいていのことはもう体験済みだから、簡単に興奮なんてするわけない。
だけど身体の内側は以前よりはるかに広く深くなっているし、
これから未知の体験がたくさん控えている。
そしてそれは「真のふるさとへの道」だ。
それが実感できるのは舞踏をしてきたおかげだ。
自分の内部を疑っていないし、その豊穣がとても気持ちがいい。
その静けさが生そのものであると感じる。
動物のように生そのものである状態にちかづく。

舞踏をやっていて、普通では想像もつかないくらい、つらい人生だった。
いくら努力しても人から認めてもらえなかったし、孤独を極めてしまった。
私はひがみっぽく愚かでぶざまだった。
今も立派な人間じゃないし、別に立派でなくていい。
ただ堂々と歳をとり、堂々と存在し、たぶん満たされて死んでいけるな、と感じている。
(痛いのだけはいやだけどね。モルヒネどんどん使ってください 笑)

身体と深くつきあうことは時間がかかるし根気がいる。
世間の華やかな楽しみとは無縁で、それが耐えがたいこともある。
実際、人は聖人君子ではなく、つまらない欲にふりまわされるものだ。
私もまた「報われたい」と強く願った。もっとお金があればとも思った。
(今でも思っているけどね^^;)
忍耐は果てしもなく続いた。
私は気が遠くなるほど長いあいだ、社会的には存在していなかった。
透明人間だったのだ (今もあまり変わらないかな ははは)


そして今は。

・・・・・ 

  
  蜃気楼の揺れる地平線をめざして どこまでもつづく大地の上を
  ゆっくりと歩く野生動物のように
  わたしは その歩行そのものが わたし自身であると
  その歩行は 死をも越えていくのだと 知っている
  地平線の向こう側は 私の永遠のふるさとだと

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