05 2015

葬送の儀礼

先月発売の押井守著「ゾンビ日記」文庫版に、解説文「葬送の儀礼」を書きました。
  → ゾンビ日記
機会があったら覗いていただければ幸いです。

この解説文の冒頭に、道端にあったカラスの遺骸をひろって埋葬した話が書いてあります。
私はカラスの遺骸をハンカチにくるんで、胸に抱いて道を歩きました。
その道は神社で稽古するときにいつも通る道なので、先日もそこを歩きました。
カラスの遺骸を抱いて歩いた時から、その道は私にとって特別のものになりました。

あの日以来、その道にはいつも光がさして見えます。
もちろん私ひとりにそう見えるだけで、他の人にとってはただの道でしょう。
でも私にはその道は聖地になったのです。
カラスを抱いて歩いた時のあの身体の記憶が、私には消えないものになりました。
そして、その道も又、わたしを、わたしの歩行を、記憶したのです。
おそらく、ただの私の思い込みの感情だけでなく、
あの道は以前とは違っているのでしょう。
人間が特別の感情、信仰のような深い感情を抱いて歩いた時、
その道は浄化されるのだと思います。
あの道は私にとって、ただの感傷ではない聖なる道となったのです。
それは世界的に有名な聖地よりも私には聖地です。

聖性とは、もともとそういうものだと思います。
観光地化した聖地が聖性の場所とは限らない。
人間の内面が関与すれば、そこは聖地です。
深い内面です。
誰に知られることがなくても、疑うことのできない内面というものがあります。
それは私のうちなる「世界の果て」です。荒野の祈りです。

近代以降人間は個人になってきました。
そして信仰も死生観ももはや存在しない。
聖地と称する特別の場所に観光に行けば、そこが聖性の場所なのか、
私にはそういう気がしない。
個人になった人間の内面に、聖性を打ち立てなくてはならなくなったのです。

歴史的に残っている聖地がどうでもいいとは少しも思いません。
でもそれだけでは片手落ちです。
私達ひとりひとりの存在が聖性の場所を実現する必要がある。
それは「距離」のない、私達の内部の、ほんものの、生きた聖性です。
そのことによって、私達もまた霊性の歴史の序列に加わるのです。

聖性を生み出す行為、それが私の考える舞踏です。
カラスの遺骸を抱いて歩いたあの道こそは、現代の信仰の場所なのです。
目に見えないが確かにある、あの場所の光こそが。

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