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19 2015

沖縄巡礼 1




昨年の暮れに行った沖縄巡礼について、やっと書きたくなった。
なぜだか先延ばしにしてしまったのは、最近集中力がなくなったせいか。
正確に言うと、踊るとき以外のところで集中するのが面倒になってきた。

沖縄については全然詳しくない。
読んだ本と言えば、岡本太郎「沖縄文化論」、比嘉康雄「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」、吉本隆明「南島論」関係くらい。
どれも大変すばらしい本だ。

私はここでふたつのことだけを書こうと思う。
ひとつは巡礼で感じた、土地と身体について気がついた事。
もうひとつは久高島のイザイホーについての、舞踏の立場からのちょっとした感想。

沖縄についてのすぐれた考察はたくさんあるだろうし、私ごときがそれに加えることなどあろうはずもない。
ただ、ここで私が書くことは、あまり他に例がないような内容だと思う。
おそらくは舞踏をしている者にしか書けないようなことだ。

● 土地と身体について。
いつも書いていることだが、私のしている舞踏は伝統芸能でもないし、輸入された西洋のダンスでもなく、わずか半世紀足らずの歴史しかない。
いざ踊ろうとするとき、これは大変な問題となる。
漠然と「表現」をしているつもりの時には、思いもしない困難がある。
私達の身体は何を根拠に存在しているか、ということだ。
土地も共同体もない私たち現代の都市生活者は、根拠を持たないカスミのような身体で日々暮らしている。
身体表現をしようとする時に、その問題性が凝縮され、もはや耐え難いまでにその「根のなさ」が白日のもとに曝される。
極端な話、腕一本動かすことも出来なくなるのだ。
人間の体の動きこそは文化の原点であり、世界観そのものだ。

現代人は自分の身体を確かめるために、例えばジムに行く。
タトゥーをいれたり、路上で踊ったり、犯罪ドラマを見たり、ドラッグしたり、スポーツ観戦をしたりするわけだ。
いつもマラソン大会をテレビで目にするたびに私は思う。
こんな苦しいことをわざわざ、こんなに多くの人がしたがるのだ、と。
身体を確かめたい。それは生きている実感が欲しい、ということだろう。

私もまた表現の立場から、深く掘り下げたところで身体の根拠が欲しかった。
舞台に興味をなくしたのは、舞台上の身体になんの根拠もないことが、わかってしまったからだ。
そこで苦し紛れに「巡礼」を企画した。
正直のところ、それほど成果があるとは思っていなかった。
何もしないよりはまし、という気持だったのだ。
ところが、これが予想をはるかに上回って面白い、楽しい。
何が楽しいのかよくわからない。どうしてこんなに楽しいのか。

体を確かめるために人がする様々なこと。
その大半が「周囲から離れて独立したもの」としての身体に対する働きかけなのだ、と気がついた。
例えばジムで体を鍛えるのは筋肉に対する働きかけであり、その体を生かしている根拠を問うものではない。
身体を身体じたいとして扱っているだけ。
その意味ではほとんどの身体表現も同じだ。
「私が踊る」のであり、土地とも共同体とも関係ない。

土方さんは東北という土地と舞踊をつなげようとしたし、大野さんは死者とつなげようとした。
その意味では舞踏は伝統芸能ともつながるものだ。
能は死者とつながっているし、郷土芸能は土地とつながっている。
舞踏はだけど、それが現代における普遍にまでは達していなかったのだと思う。

「巡礼」は、身体と土地をつなげようとする試みであり、身体はそれ自体として単独に存在できはしない、という認識から出発している。
身体は場の存在であり、共同体と切り離す事はできないし、植物や動物と同じように土地につくられる存在である。

しかし巡礼の場合の身体と土地の関係性は、それほど深いものではない。
たとえば農業する人が土地とつながるような、
漁業する人が海とつながるような、
古代の人が天体とともにあるような、
そういう深いものではない。
所詮は遊戯だ。
だけど、遊戯であること、それほど深いものではないこと、そのことに私は意味がある気がしている。
私たち都市生活者の生は土地を離れた「浮いた」ものでしかありようがない。
それが私達にとっての土地との関係の始まりなのだと思う。

私たちは巡礼の土地をおとずれるストレンジャーであり、通過することによって、土地と身体との再編成をこころみているのだ。
それはいってみれば、自然と人間との関係の再編成でもある。
私達は動物や植物のように自然にはなれないし、古代に帰ることも出来ない。
人間はいつも世界を再編成することで、歴史的にその生を更新してきた。

私達は土地を喪失した者として、ストレンジャーとして、
あるいは街を歩き、あるいは森に入り、水辺を歩き、土地と身体の新しい関係を問い続ける。
そして結局は、アスファルトの上で生き、アスファルトの上で死ぬ。

遊戯でしかないからそれはインチキなのではない。
おそらくは・・ 遊戯を生き遊戯を死ぬから、「土地と身体が新しい相貌でたちあがる」のだ。
と今はそんなふうに思っている。
それが正しいかどうかは私にはわからない。
ただ手掛かりはある、と感じるのだ。
巡礼するときのこの楽しさが、それを予感させる。
身体ってなんて絶大な力を持つのだろう、というのが、私の素直な感想である。


・・ 続く

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