22 2015

沖縄巡礼2

● 土地と身体についての続き。
初めて沖縄に行ったんだけど、最初の印象は「なんて簡素な土地だろう」というものだった。
目立つものは何もない。きらきらしたものがひとつもない。
どこか埃っぽい。
何十年か時代を遡った、まだ日本が豊かではなかった時代のような。
小さなひっそりとした島。
空気は魅惑的だった。
陸の上にも海流の気配があって、島全体が、海と風のおおきな循環に洗われているような、
言葉にできないボーバクとした印象。夢を見ているようだ。
そこに住む人達の心が見えなかった。
静かで善良でいて、でも掴みどころがない、何かを隠してでもいるような。

泊まった民宿では宿主のおばさんにニコニコ顔で「あんたらどういう人たち〜?」と訊かれて、
「踊りのグループです」と返事すると、
「それは はぁ〜 やっぱしぃ神様に捧げるというもんかね」と言う。
「まぁ そういうもんです」と私。
ここで私は妙に感動。
踊りと聞いて「神様」という言葉が即座に返ってくる。
ここはやはり沖縄なのだな。
これは東京近辺では絶対出てこない言葉。
踊りと聞けばステージのイメージしかないのが現代人。
神様に捧げるなんて言ったら「何この人?」という顔つきをされるだろう。

沖縄には有名な琉球舞踊があって、岡本太郎が絶賛しているし、文化人はたいてい琉球舞踊を好む。
私達もこの巡礼中、見る機会があった。
日本舞踊よりはずっと好きだけど、私にはやはり他人事の感じはぬぐえなかった。
同行した詩人の深澤さんも同じ感想だった。
資料的価値はあっても、自分の内面に抵触して来ない。
それほど、歴史的舞踊と私とは断絶があるのだ。
これは沖縄に限らず、どこの郷土芸能や伝統芸能を見ても同じだろう。
土地からうまれた舞踊と私とは断絶しているのだ。
伝統という価値ある世界は、私の向こう側にあって手が届かない。
どうしようもなく私たちは個人になってしまったのだな、と改めて思った。。
かと言って欧米系のチャカチャカしたダンスにも違和感がある。

さて、以下では土地と私達の身体の関係について、たったひとつのことを書きたい。
それは私達の「身体の内部」と土地との関係についてである。

私達はこの巡礼において、久高島の海辺と、本島の城跡で主に踊った。
文化遺産である斎場御嶽(せーふぁうたき)その他にも行ったのだが、
観光地で人でが多かったこともあり、そこでは踊ることなく、さらっと観光したのみ。
人出のない名もないところを捜して踊った。
どんな様子かは前々回のブログの写真をご覧下さい。

青い空の下、人気のない場所で同行の3人だけで、
そこが沖縄であることすら忘れて、ただ踊る。
自分は何者でもない、ただそこにいるという感覚だけ。
何か目に見えないものに身を委ねる感じだ。
たったそれだけのことが、どれほど幸せで満ち足りていることか。

そして、ここからが面白いのだけど、そうして踊った行為の記憶は、
踊り終わって、そののち日常に戻り、宿に帰り、帰路につき、
旅から戻って自分の普段の生活をまた繰り返す、
それらの日々の中でも、失われることがない。
それどころが日常の日々の生活の中で、じわじわと育ち続ける。
そのことに気がついて胸を突かれることがしばしばあった。
ふっと微笑みがわくような充足感がある。

これは私達にとって新しい発見であり驚異だった。
観光で訪れた著名な聖地の記憶は何も残っていない。
でも自分たちが踊った場所、聖地でもなんでもない土地の記憶は、消えることがない。
身体のなかに根を張っていくのがはっきりとわかる。
これが身体の力か、と私は驚いている。
だから沖縄巡礼した私達にとって、沖縄とは「自分たちが踊った土地」以外のものではない。

この場合の身体とは「踊りをした身体」というところがキモだ。
踊るという行為によって、その土地と私達の身体は睦み合ったのだと思う。
まるで秘密の儀式のように。
身体はすごいけど、その凄さは、踊るという行為によって顕在化するらしい。
そしてこの場合の踊りとは「内的な踊り」であることがまたキモなのだ。
ふつうにダンスしたり、出来上がった舞をしたり、ではこうはいかないと思われる。

内的に踊るとはどういうことか。
(言葉を変えれば、それはアニミズムの身体ということでもある)
人間の輪郭を消し、土地や風や草花や虫や埃となって。
もちろんそれが完全に出来ているのではないとしても。
それは私達の内部が土地とかかわるということであり、
もっと言えば、
私達の内部と、その土地の内部とが、出会い結ばれるということなのだ。
目に見える土地ではなく、その土地の内部に潜む生成の世界と。
精霊や死者達が息づく世界と。
大地の情念と私たち人間の情念とが溶け合う。

哲学でいうところの「内在の世界」とは、
私達人間の内在野と、土地や自然の内在野、動植物の内在野、であり、
すべての「内側」はつながっている。
これが「存在」の原初的感覚なのではないか。
大切なのは、それを具体的に実感すること、
そのための手順を踏むこと、だと思われる。

この場合の踊りとは、プロとアマとの区別はない。
何をプロというのか、それは踊りの場合は、
舞台に立ってお金がとれるか、ということだ。
それもひとつの基準ではあるけど、巡礼の場合はその限りではない。
要は「内部から踊るか否か」だけ。
どんなプロでも内部から踊らなければ、土地と睦み合うことはない。

・・・ 沖縄の内部と私達の内部がへその緒でつながっていた。
無言のうち静かに踊ったあの名もない場所が私達の聖地になった。
身体と土地とは地続きであるが、
それはあくまでも、身体の内部と土地の内部ということだ。
そして内部に入るために私達は舞踏の稽古をしている。

これが一番大切なことで、見逃してはならないことだと思われる。
そうでなくては、内発の踊りをすることで、こんなにも土地と深く結ばれる理由がわからない。
それだけ私達の内面の力は大きく、本質的なものなのだと、私は巡礼を通して学んだ。

そしてこれがストレンジャーであることの意味だ。
都市生活者は地球上のどこへ行ってもストレンジャーであり、ふるさとを持たない。
都市化以降の私達は、今までとは違う形で土地と結ばれる必要がある。
ここに、身体と土地の結びつきの再編成の手掛かりはありはしないか ?
私達ひとりひとりがあらたに身体を通して土地と出会うこと。
農民や漁師とは違う、土地との結ばれ方を、私達は探しているのだ。

そうそう、内発の踊りとは。
時間空間の意識を変え、感情や感覚を凝縮させ増幅させる力を持つ。
そこにある感情は自我意識というよりは、
大地の奥から湧き出す情動であり、私達の身体を通ってどこかへと去っていく。
極端な言い方をすれば、一瞬のうちに100年を生きることも出来る。
時間や空間が成立する前の場所に私達ははいり込む。
古来から踊りとは、そのような不思議なものだと考えられていた。
踊りとは、振り付けを上手にこなすということではない。
身体の可能性・神秘を最大限にひき出す行為なのだ。


 ● 次回はイザイホーと舞踏との関係について書きます。

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