09 2015

街歩きと他界

巡礼活動で、日本海外これからあちこちに行くし、
場合によっては、ちょっと厳しい条件下で踊ることになるので、体力つけなくちゃと切実。
巡礼参加者の中で最高齢だし。

都心方面に出るときも、目的地のひとつ手前で電車を降りて、歩いたりしている。
私は超のつく方向音痴なので、今までひとりでは街歩きしなかった。
いつ迷子になるかという恐怖があった。
なにしろ10分で行けるところを2時間もかかるんだ。
今はスマホのマップがあるので安心。
それでもかなり時間かかる。

最近発見があった。

まず歩く速度。
目的地に行くために歩くと、どうしてもせかせかするし、なんか疲れる。
信号が多いなとか、坂道きついとか、騒音がうるさい人と車が多いとか。
ビルがデカすぎる灰色すぎるとか。
・・ふと思い立って「身体に意識を置いて」みた。
するととたんに歩く速度が変わる。
とてもゆっくり歩きになり、妙に気持いい。
(ゆっくり歩く者だけが真実をつかむ、と誰か有名な人が言ってる)
一瞬一瞬を体が味わう。街を味わう。
街と体が馴染む。違和感がないので疲れにくい。
空を見上げたり、風が体を通り過ぎるのが嬉しい。
すべてが愛おしくなる。
そう、身体は楽天的なのだ。

自分の体調とか、お天気とか、建物とか、街行く人達の存在感とか、
そういう要素が絡まり合って、身体が自分の歩く速度を決めている。
これがとても気持いい。
なんて楽しいんだ、と思う。
ふだんいかに意味なくせかせか歩いていたのかに気がついた。

二足歩行が楽しければこの世は天国。
だって人間だもん。死ぬまで人は歩くのだから。
お金かからなくてこんなに楽しい。
これでビールの一杯もあれば言う事ない。

もうひとつ気がついた。
街を歩いていると、かならず一定の割合で神社がある。
これ自体がまずすごい。
どこに行っても神社があり、それを最大限こわさないように日本人はしてきたこと。
日本人のいちばん根強い信仰を神社に感じる。
街を歩いていると、神社ってオアシスだ。
かならず木立がある。大きな木を残している。
ラクに息ができる。気持が休まる。
(そして猫がいる)
環境破壊なんて平気でやってきた戦後の日本人がさ。
神社だけは壊せなかった。
神社を片っ端から壊したら、たぶん日本人は壊れる。やっていけなくなる。

そして神社は異界とか他界への入口だ。
ここを通って「カミ」と「永遠」がある。

だけど、だけど、ここからが肝心。
神社は常世への入口を地理的に保証しているけど、
実際に「あちら側」に行くためには、身体というツールが必要なのだ。
ただ神社があるだけでは「あちら側」には行けないだろう。
そこから先は身体の出番だ。
と私は舞踏家として実感している。
この力強さは身体をやっている者にしかわからないかも。
それくらい身体はすごいのだ。

だから私たちは聖地巡礼をする。
神社とか聖地とかという異界への入口から、踊ることで実際に「あっち」に入っていく。
そして何喰わぬ顔で「あっち」から平気で出てくる。とても静かに。

こんなにすごいこと、どうして今まで誰も気がつかなかったんだ ?

神社という地理的な場所。
神社の縁起という資料的認識。歴史性。
その凍結した材料を解凍して、生きたものにするのが身体だ。
身体が凍結をほどき、神話世界を現実のものにする。
私たちは神話を生き、呼吸する。
過去に生きた人たちは今もここにいる。
わたしたちはあのひとたちになる。踊るときに。
土のにおい、木立、風、光、この空気のあちこちにあの人たちがいる。
死者たちは遍在する。
時間は循環する。永遠に止まっている。
そこに身を置くことで私達は無限を生きるのだ。
永遠の序列のなかで眩暈して溶けていく。

身体のこのツールとしての力を見よ と言いたい。

・・・と、そんなことをつらつら思いながら私は歩くのさ。
小柄な体にデカいリュックサックを背負って。
善哉善哉。 Life is beautiful。

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