14 2015

衣裳制作

もう二度と衣裳づくりの苦労はしたくない、と思っているにもかかわらず、
またしても今、衣裳を作っている。
疲労困憊。ふらふらする。よれよれになる。
何回もゼロに立ち戻り縫い直す。
衣裳制作は、まるで宇宙創生のようだと思う。
人類が自分の「身を包む」という行為に及んだ時、そこに何が起こったのだろう?
そんなことを思ってしまう。
ゼロから服を立ち上げるって、何なんだ ?
やったことのある人ならわかるだろう。
衣裳を作るとはとんでもない困難な行為であることが。
それは人がつくる最初の世界像のひとつだ。

私の場合、衣裳制作に行き詰まると必ず開くのが、
昆虫と鳥の写真集。
南米アマゾンの森林で撮られた、お気に入りの写真集がある。
舞台衣装の本とかファッションとか、いろんな本を見るけど、
最後は昆虫。
それは「自然に学ぶ」ということではあるけど、
学ぶというより同化に近い。
昆虫はこんな形と色彩とテキスタイルで、一体何を生きているんだ?
素晴らしすぎるぜ。
ああどんな美男美女も奴らにはかなわない。
私は昆虫の内部の恍惚を感じるのだ。
彼らには自我はないが恍惚はある。

いつもそうなんだけど、
私が衣裳をつくると、一種の様式性が出現する。
最初からそれを意図することはないにもかかわらず。
ここに私の舞踏の傾向というか資質があるなーと気がつく。
それは私にとって踊るとは、
普段の日常の現実生活の「私」の延長ではなく、
飛躍があることだ。転換があることだ。
踊るのは「私」ではない。
ハレとケでいうハレということ。

それは表面的に受け継がれた伝統の様式ではなく、
私の内部から立ち上がる様式の発見。
線や面や流れや明暗、事物の構造、その他もろもろ、
見えないものが立ち上る様が、見えてくる。
線や面にこめられる内的世界の様相が。
それをなぜか色っぽいと感じてしまう。
心臓がドキドキする。
衣裳とは、時間と空間を演出する魔術師のようなものだなぁ。

あともう一つ。
動物性が欲しくなる。
そんなことは衣裳つくる前は考えもしなかった。
衣裳に動物の力が欲しいなんて。
実際にはそれは実現できないことが多いんだけどね。
衣裳に動物性を持たせるって、すごく難しい。
毛皮使えばいいってもんじゃないし。

世界各地の土着の芸能の衣裳って、動物の意匠を取り入れているものが多い。
知恵があるなーと思う。
西洋のバレエで動物性があるのは、ニジンスキーの時代のものくらい。
それ以外は人間臭い貧血症のデザインの衣裳ばかり。

コンテンポラリーダンスの人達は様式性とか動物性とかと反対で、
たいていは普段の「私」の延長上の衣裳を身につける。
普段着にちょいと手を加えたもの。あくまでも「私」。
人間でしかないし日常でしかないし、飛躍も位相変換もない。
衣裳にはそのダンサーの世界観が現れる。
コンテの人達は「自由」を訴えながら、
バレエの拘束をのがれていると思いながら、
まるで金魚鉢のなかの嵐のように、同じところをぐるぐる回っている。
かれらは日常の自分の延長にいながら自由になれると思っている。
暴れれば自由なのかい。体を不自然にひねれば自由なのか。
どっこい、「存在」とは飛躍であり入れ子であり嵌入であり象徴であり、
次元の違うものの複雑な関係性なのだ。
そして恐ろしくも美しい魔物なのだ。

昆虫たちの意匠。
それは拘束と自由と恍惚のあらわれだと私は思う。
あの材質の自在さ、混淆と整合の、なんという危ういバランス。
彼らはあの色彩と形とテキスタイルと複雑な構造で、慄き、陶酔している。

・・・さて今日も衣裳制作にのたうちまわることにしよう。
陶酔しつつ立ち上がる衣裳を求めながら、
スキルがないのではんぱなものしか出来ないんだよね。
ほんとにわけのわからない半端なものぱかり作っているよ。
ひいぃぃぃ(´;ω;`)

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