16 2016

わたしに忍びよる死の音をきけ若いひとよ

昨日いつもの神社に行ったけど、稽古するのでなく、ただぼんやりしていた。
最近そういうことが多い。
たぶんこれも稽古のうちなんだろう。
自分の体に空気が触れていることをただ感じている。
愛撫のよう。
そして空気のなかに音が聴こえてくる。
耳には聴こえない音。永劫の風の音なのか。

空気が動いている。
空気をつくる粒子のひとつぶひとつぶが、いきいきとして粘っこく私に絡みつく。
それが私をうっとりさせる。
これは老人が見るという夢の世界なのかしら。
空気は幾重にも層になって私の体を取り囲み、何かを語っている。
いにしえから続く物語なのか。
空気のなかに時間が積り、死者たちが甘く歌っているのか。
ああ素晴らしい感触。

もしかすると忍びよる死の足音なのか。
私の身体知は死の準備を始めたのだろうか。
死がわたしの体に侵入しているのか。

どのように死ねばいいのかと老人は考えるものだけど、答えはない。
死にはふたつの側面があり、
ひとつは自分の内的な問題。いかに死に向かい合うか。
ひとつは外的な面。どこでどのように死ぬのか。死んだあとの遺体をどうするのか。
ほったらかしておいても人は死ねる。
だれかが遺体を処理してくれる。
別に無縁様でもいい、というか無縁様のほうがいいかも。
内的な問題のほうが大きいのかも知れない。
内的なものがあれば、あとはどうにかなる。

あの始原の場所で最愛の死が私を待っているのか。
ものごころついた時から死を思っていたので、
いよいよ故郷が近づいて来たのかな。

思えばはるか昔から、私は何ものかの訪れを感じつづけていた。
そのひそかな足音をきいていた。
あの足音は夢だったのかと、不思議に思いながら何十年もたった。

最近、後頭部のあたりに、うわ〜ん とか じいぃぃん とかの音がする。
これも耳で聴く音ではなく沈黙の音。
その音を聴いていると落ち着く。ほっとする。
まるで虚空に自分が浮かんでいるみたいだ。
ヨガ瞑想の先生をしている人が「それは宇宙とつながったんですよ」と言う。
たぶん本来は誰にでも聴こえている音なのだろう。
その後頭部の音のなかに時折、
シャンシャンというとても小さな鈴のような音が交じる。
これまた気持よく、湯船に浸かっている時などずっと聴いている。
そう言えば「世界はひとつの音である」という言葉を昔何かで読んだような。

別に悟ったわけでもないし、悟りたいなんて思わないけど、
(悟るってそんなにすごいことなのか ?)
年齢にふさわしく、わたしの体に変化が起こっていると思う、この頃。
「もう長くは生きないな」と思う時、あたりがしんと鎮まるのだ。
世界は深く恐ろしい。
底なしの美しい空間が身のまわりに生まれる。
神社のいつもの静けさとは違う、はるかに深い蠢く静けさが私を取り囲む。
この静けさにはダイナミックな動きがふくまれていると感じる。
その運動があまりにも深いゆえに、静けさとして感じられる。

私はこれから徐々に死んでゆく。
その時がはじまったのだ。
わたしはわたしのこの仕事を成すだろう。
私は死の甘い蜜を吸う者。

わたしを包囲し、わたしに忍び寄る死の足音をきけ若いひとよ。
いや増せわたしを囲む沈黙よ。
それは神からの最高のプレゼントを受けとめようとする黄金の時。

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