24 2016

芸能の力

私は伝統芸能にあまり興味がない。
能や歌舞伎を勉強だと思って見た時期もある。
面白いところもあるけど同時に退屈でもあるので、今は見ない。
チケット代高いし。
たいしたものだとは思う。
歌舞伎のケレンとか、能の劇構造の完成度とか。
時間をかけて出来あがってきたものは盤石だよなー
個人の表現なんて足元にも及ばない。
でもそれを見ることが自分の人生とは結びつかない。
それを見たからと言って、人生の生き難さ虚しさは少しも変わらない。
そして伝統芸能を見続けていくと、大半の人が通(つう)になっていくのも、
私にはそこに生命力の弱さを感じてしまう。
私にとって伝統芸能は資料的価値であって生きたものではなかった。

(伝統に興味のない私が、舞踏をしていくうちに日本の身体を見出したのは、
自分の身体を垂直に降りていったからで、目に見える伝統を追ったからではない)

能や歌舞伎のような中央の芸能でなくても、
郷土芸能や民俗芸能にも同じものを感じている。
その土地に住んでいる人達には今も生きた芸能なのだろう。
でも都市生活者である自分には、郷土芸能は、資料的価値であり観光でしかない。

だからと言って現代のアートが好きかというとそうでもない。
アートの身体表現には何も感じない。
コンテンポラリーダンスとか、5分見ると飽きる。
あれもダメこれもダメって、お前はなんてひねくれ者だと思った時期もある。

どちらかと言えば西欧近代の芸術よりは、芸能のほうが好きだ。
能とか歌舞伎とかその他の、目に見えるかたちとしての芸能というより、
芸能の力、という本筋のところを求めていると思う。
芸能って身体性の問題のように思う。
高尚な思想も哲学も、身体というマテリアルに落とし込んで初めて、
この地上に着地して生きているものになる。
頭で考えただけだとカスミのように手応えがない。
でも現代人は頭で考えただけで何かしたつもりになっている。

現代において芸能の力はどこにあるのか、とずっと考えているけど全然わからない。
折口信夫は沖縄の土地固有の芸能を見て感激した。
彼は学者だし、時代的に言っても、
郷土芸能を見るだけでも価値が大きかったのだろう。
今わたしが沖縄の芸能を見てすごい発見だと思うことはなさそう。
イザイホーがなくなってしまったように、それを終わってしまったものと思う。
そこから学ぶものがあるとしても、生のエッセンスを感じることはない。

能や歌舞伎のような、今では国に保護されているようなオモテの芸能に対して、
大道芸やストリップのようなウラの芸能があったのだろう。
江戸時代の遊郭のような存在の名残りが、今の祇園やストリップ小屋にあるのかも。
キャバクラやホストクラブや風俗には、あまり芸能を感じない。
芸がないからだろう。遊郭に較べると味も素っ気もない。

近代化以降、日本のオモテ舞台から身体が消えたのだろう。
一部が大道芸やストリップのような形をとって細々と生き延びていた。
私が面白いなと思うのは、身体性は強くヤクザの世界に生き残ったということだ。
タトゥーとか「固めの盃(さかずき)」とか、骨噛みの風習とか、武器を持つとか。
あとは芸能ではないけど、整体とか武術に身体は続いていた。
(新興宗教は、近代化で捨て去られた身体と霊性の反逆と言えるのかな)
いずれも気配を消しながらも今も生きている。

もうひとつ最も大きな身体の場所として軍隊があったと思うけど、
この問題は大きすぎて私の手には負えないので、ここでは省く。

土方巽は、近代以降の西欧一本やりの身体表現の世界に、
日本の大道芸やストリップのようなウラの芸能の力を持ち込んだ。
あの時期の状況劇場、天井桟敷も似たところがあったのだろう。
そのように新たにとりこまれた時、二重に伝統的な大道芸は終わっていた。
いまでは伝統芸能のどこにも芸能の力はないと思われる。
個別に優れたものがあるのと、本質的な問題は別。
ギリヤークさんに芸能の力があるだろうか。
大道芸も路上表現も選択肢のひとつにすぎない。

押井監督は自分のことを、
「ボクは芸能人でもないし芸術家でもないけど芸能者だ」と言っているが、
この言葉面白い。
身体を使って何かやっているから芸能だという単純な区分ではないんだなと思う。
芸能の力という意味では、ダンスよりもアニメや映画に芸能の力が存在するってこともあり得る。
サイボーグやロボットは新しい身体??
(ついでに言うと舞踏もある意味でサイボーグです。その理由は割愛)

地球全土が都市化されているような現代において、
身体はどこにあるのか。
芸能の力はどこにあるのか。
現代では、格調高い伝統芸能も前衛の舞踏も芝居小屋もアイドルも、
全部フラットだ。
その地ならしされた平面に、新鮮に立ち上がるものを私は求めているのだろう。

郷土芸能の演者にはおそらく「身体」という概念・意識はない。
受け継がれた形を繋いでいくだけでいい。
身体運用の果てしない奥深さとか、身体の内部とか、そんなものは必要ない。
ひとりの人間の固有の身体性なんて、はじめから存在しない。
なぜなのだろうと考えた。
たぶん、共同体と土地が彼らの身体だからだ。
都市生活者には共同体がないから、それに依拠した祭祀をおこなうことは出来ない。
都市生活者には娯楽はあっても祭祀はない。

身体という概念はとてもこんにち的なもので、
都市化と情報が地球全土を覆った時、はじめて浮上した概念なのではないか。
人類が身体を排除してきた歴史は長いものだけど、
ここにきて身体喪失が、もはや耐えきれないところにまで来ているのか。
それは新しく土地になろうとしているのか ?
ネットが地球上に新しい地平をつくりつつあるように、
身体は目に見えない地平をひそかに用意しているのだろうか ?
身体というもっともローカルでアナログなものが。
(身体は意外にデジタルでもあるのだが)

私の稽古に来ている若い人達は、身体喪失に敏感に反応している。
彼らは若いだけに危機意識がつよい。
最上さんは年寄りだから若い人の気持はわからないだろう、と言われることがある。
私は別に彼らをわかろうとは思ってない。
ただ自分の生を必死にやっているだけ。若い時も今もずっと。

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