09 2016

まなざしのレッスン

私は稽古が大好き。楽しくてたまらない。
公演のための稽古でなく稽古それ自体に意味がある。
メソッドのない踊りだけど、なんとかいい方法はないかといつも悩んでいる。
ひとつの場をわかちあって、
稽古の時間帯だけは自分の身体と真剣につき合い、
浮世の義理を忘れて、身体を通して他者と向かい合う。
こんなに楽しいことがあろうかい。

前回の稽古では、いつも必ずするスローという稽古に、
(なんのことだかわからない人もいるでしょうけど)
「まなざしのレッスン」というのを加えてみた。
これがなかなか面白かったので、あらためて「眼差し」について書いてみたい。

舞踏している時の眼差しについて、よく質問される。
「どこを見ているんですか?」とか「不思議な目」とか。
それは日常生活における目の使い方とは違う。
日常においては人は対象物に焦点をあわせる。
水を呑む時にコップを見るというように。
次から次へと対象物を見る。
その連続で日常生活は成り立つ。

舞踏においては目は焦点を結ばない。
だから目つきが茫洋としていて、ガラス玉のようであったり、
動物や、人間の赤ちゃんのような目つきに近づく。
焦点が合ってないで、目線が霧のように散らばる。
これは武術家や狩猟者の技芸と同じだと思う。

目の焦点をあわせると対象物はよく見えるが、
対象物以外は除外される。視野が狭くなり全体が見えない。
顔つきの印象としては近視眼的というか、こせこせした顔つきになる。
焦点を合わせず目線を散らすと、
空間の認知がとたんに大きくなり全体が視野にはいる。
その全体のなかに対象物がある。
対象物に焦点を合わせなくても対象物はちゃんと「見えている」
全体と対象物の両方が等価に見える。
地と図の両方が同時に見えるということです。
あるいは対象と自分との距離感の消失。
世界は前面に見えるだけでなく、身体のまわり360度に感じられる。
そこに自分が溶けこんでいる。
これはアニミズムにもつながる眼差しだと思う。

この「見えている」というのがキモだ。
「見る」のではなく「見えている」
主語が希薄だ。
この違いは大きい。
体の印象まて変わってくる。非日常化されるのだ。
言葉を変えれば体が「大きくなる」
いい役者は舞台に立つと体がおおきくなるという、アレですね。

この「見えている」状態になると、日常の拘束を逃れて、
伸び伸びとしてうっとりしたいい気分になる。
この視線以外にも日常を逃れる他の身体技法があり、
それらを動員して、舞踏の身体は非日常化され、
ついには聖性にまで至ろうとするわけです。
なかなか出来ませんけど。

具体的にどうするかというと、
それは稽古に来てみて欲しいです、門外不出、と言いたいところだけど、
ここでひとつふたつヒント。
まず目の前中央や対象物を見ないで両脇を見る。黒目のあいだを広げる。
あるいは、モノでなくモノの周りの空気をじっと見つめる。
何もないところをじっと見るのがいいのです。
しつこくやっているとクラクラしてきますよ。
これが現実原則の崩壊のはじまりです。
ここから先を知りたい人は稽古に来ましょう(笑)

眼差しのもうひとつの側面、
それは自分が「見られる」側になった時の状態。

ふつう芸能者は自分の技芸を人に「見せる」
なんとか魅力的に見せようとする。
だけど舞踏は「見せる」のではなく「見られている」という状態で踊る。
見せるという要素も当然あるのだが、
それはあくまでも「見られている」の基本の上に成り立つ。
この違いも大きい。
「見せる」には媚びたところがあるので品格が落ちる。
それに目的意識的なので、芸がちんまりとしてくる。
「見られている」だと品格がある。
これはなにも気取って上品ということではない。
例えて言えば動物の気品のようなもの。
「別に他人に媚びなくても私は確かにここにいる」という存在の仕方だ。
体も大きくなるし存在感も出てくる。

これらは、わかっていても日常生活をしているうちにすぐに忘れる。
どうしてもこせこせして来る。
だからこそ繰り返し稽古して、体にインプットし続け、
スイッチをいれればいつでも、眼差しをチェンジできるようにするわけです。
面白いよ〜。
ものの見え方が瞬時に変わるし、気持に余裕が出来る。
たいていの訓練を積んだ技芸者は無意識のうちに、これをしていると思う。
舞踏では意識的に稽古して、
例えベテランでなくても一瞬にして世界が違って見える、という幸せな経験をしていく。

眼差しについてはまだまだ書くことがあるけど、いずれまた。

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