13 2017

満開の桜の下

満開の桜の下には死体が埋まっている、という有名な言葉。
誰でも知っている言葉だけど、実感できてる人はどれくらいいるのかな?
気のきいた文学的な言い回し、として知っているだけかも知れない。

ウチの庭にむかし植えたスノーフレーク。
スズランの花に似ている。
球根ものなので肥料をあげないと花が咲かなくなる。
肥料あげてなかったので10年以上も咲かなかった。
葉っぱだけチョロチョロと出ていた。

それが今年はどういうわけが急に咲き出した。
不思議に思っていたけど、あることに気がついた。

昨年の夏の朝、道端にあったカラスの屍体を拾って庭に埋めた。
(葬送の儀礼というタイトルでブログにも書いた)
スノーフレークの植わっている場所のすぐ隣に埋めた。
そのカラスの屍体が土に還り、それが栄養になって、
今年のスノーフレークを咲かせたのだと気がついて、胸を突かれた。
そうだったんだね・・
当たり前の現象なんだろうけど、うれしいやら悲しいやら。

カラスの屍体が元素に還って、それがスノーフレークを養った。
リン=Pとか窒素=Nとかになって。
こうやって循環するんだな。
死ねば腐る、というのはいいな、なんて思う。
腐らなかったら命は循環しないのか?
火葬して灰になったら循環しないのか? どうなんだろう?

私はよく「踊っている時に死の体験をする」と感じているんだけど、
それって比喩ではないと思ってる。
体験しているのは死のシュミレーションではなく、死そのものなのだと思ってる。
どうしてそう思えるのかを説明することは出来ない。
ただ確信している。
こういうことは本来説明したり証明したりは出来ない。
死は遍在していて、もっと正確に言うと、それは死ですらない。
生と死の区別のない領域。力の領域。
強度で目がくらむ領域。
私は生命の循環というものを、
どこか物悲しい諦観のように考えることが出来ない。
もっとダイナミックなもの。非情なもの。
人間臭くないし、お涙ちょうだいでもない。
エネルギーのかたまりのように感じている。
見えない領域が、スノーフレークの花となって、
私の目の前に迫ったと思った。
そのウラには怪物がいると思える。
踊りは力強い。見えない領域から力を引っ張ってくる。
力は純粋で非情だ。踊りは人間くさくないほうが美しい。

0 Comments

Leave a comment