13 2017

吉本隆明的原始人

昨晩珍しく夢をみた。
美川憲一がすごい歌い方をしている夢だ。
それは今までどこでも聴いたことのない発声だった。
別に美川憲一でなくてもいいんだけどね。
大地から湧き上がってくるような、恐ろしい響きで、
どんなによくできたホラー映画でも実現不可能な発声だった。
たとえ夢でも聴けて嬉しかった。
というか、夢でないとムリ(笑)
その時の時空の歪みはすごかった(笑)

「言語にとって美とは何か」という吉本さんの著作に、
狩猟民がはじめて海を見た時に、
思わず「うっ」という声を発してしまう状態について書かれている。
この部分は、私が敬愛するヲシテ研究家の青木純雄さんが、
ご自身の著作「よみがえる日本語Ⅱ」のなかにも引用されている。
言葉の原初的あり方としてとても印象つよくて、ずっと気にかかっている。
長くなるので引用しはしないけど、その生理感覚は説得力ある。

はじめて母韻を発してしまった時とか、
はじめてひとつの単位として言葉を発してしまった時、
人間の中で何が起こったのか、身体の内部はどのように反応したのか、
メチャクチャ気になる。その時の状態はたぶん、
舞踏している時の状態に似ていると想像できるからだ。

中沢新一さんがどこかで書いていた。
ある学者が「うみ=海」という言葉の原初的音声を、
コンピューターを駆使して再現してみたと。
何語だったのか忘れたけど、どうも何語であっても共通した響きがあるようだ。
それを聴いた中沢さんは、その恐ろしい響きに震えがきたという。
それはどう聴いても「海」そのものだったという。

その音声を聴いてみたかったなー、とずっと思っていた。
私が主催者のひとりでもあるヲシテ講座でも、言葉の原初的あり方について語られ、
言葉の「音声と意味性が分離していなかったある状態」について、
私はあれこれと感じ入っていた。
それで入浴中、湯船の中で、実際に発声していろいろと試したりしていた。
一つの音が身体の奥深くから発声され、その音は立体的で奥行きがあり、
現代人の発声のように平板でペラペラしていない、
というように発声しようと努力してみたり。
でももちろんうまくは行かない。
すでに原始人とは身体が変わってしまっている。
私たちはペラペラと安っぽくしか発声できない。

それでもいろいろ試していると、やっぱりいつもの発声とは違う。
舞踏している時の体の状態で声を出したりしてみる。
「ウミ」ではなく「ウイィィムュィィ・・」みたいになる。
それもやっと声が出るという感じで、当たり前には声が出てこない。
半分唸っているみたいだし、どもるし、やたらに余韻をひく。
声が低くなったり高くなったり定まらない。
ねじれる。スローになる。リズムがぎこちない。
はじまりと終わりがはっきりしない。
大地と自分の体が通底したような音。
じっくりやっていると苦しくなる。慣れないからだろう。

ダンスしている時にダンサーが言葉を発するという試みを、
何回か見たけど違和感がひどかった。
あまりにも簡単すぎる。言葉と身体の問題を深く考えていない。
それはピナ・バウシュでもそう。
みんなやることが簡単すぎるよ、と私は思っていた。
だけどまぁ、それは最上さんが深すぎて頭がヘンてことなんだ、
と人から言われたりしていた。
そんなに根源からものを考えたら一生実りがないよね、
と自分でもわかってはいるのだけどね。
でもやっているとゾクゾクするほど楽しい。
身体の内側に関してあれこれとやってみるのは、快楽が極まる。

古代歌謡とか能の謡とか坊さんのお経とか義太夫とか祝詞とか、
現代とは違う発声法はいろいろあるだろうけど、
そのどれとも違う気がしている。生意気でゴメン。

・・・ というわけでとりとめもなく。

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