13 2017

死後の世界

今朝の新聞にある作家が「死後の世界はあるか」みたいなことを書いていた。
この問は人類にとって永遠のテーマであり続けている。
こういうことには答えはない。
死後の世界はあるかという設問自体がムリだ。
「語りえないもの」があるとしたら、まさしくこれだ。

同じような問に「神は存在するか」というのがある。
これも設問自体が矛盾をはらんでいる。
こんなことは証明できるわけがない。
科学的証明というのは、証明出来るものを証明するだけだし。

証明できなくても人は問い続ける。
問い続けること自体のほうが、すでに何かだろう。

身体に取り組んでいる者は霊性について気がつくことが多い。
というか、霊性を気にする人は身体に気がつき易い。
(身体に対して鈍い人というのは確かにいるので)
武術家で霊性を語る人は多い。
ダンサーではほとんどいない。
この違いは面白い。
東西の身体観の違いが如実に出ている。

死後の世界とか神の問題というのは本来、身体知でしかあり得ないと思う。
思弁的にどうにかできるようなものではないだろう。
身体に取り組んでいると、身体自体が何かに気がつく。
それは、生命そのものがその生成の過程ですでに他界を孕むものだからだろう。
身体はそれを記憶している。

頭でだけ考えていると懐疑主義になりやすい。
でも身体は生の鉱脈にある核心、に気がついてしまう。
ただその場合も人は知的に鍛えられている必要がある。
これは必ずしも本をたくさん読むということではないが、
本を読まないで身体知を鍛えることもまた出来そうもない。
素朴なだけではどうにもならないのが人間だ。

私が身体をやっていてつよく感じるのは、
「身体は何かを知っているな」ということだ。
これは西欧哲学の思弁性の限界を超えるものかもしれないね。

私には、死後の世界はあるのが当たり前だし、神はいるのが当たり前。
ただこれをいうと誤解されるのは目に見えているので、ふだんは言わないだけ。
こんなことは疑うこと自体が間違い、と私は思う。
ただ「死後の世界」という言葉はまずい。
そんな平板な言い方ではどうにもならないし、
安い宗教のように功利的になってしまう。
死が怖いから死後の世界はあると思いたい、的なものではダメだ。

言葉にできないものがあるのは当たり前だ。
言葉にできない謎の領域に至りたくて言葉を用いている。
深みにはまらなければ見えない領域というのがあって、
深みにハマるのは呪いのようなものだから、
どうしたって苦しまないとものは見えないってことなのだろう。

問題は死後の世界があるかどうかではなく、
十全に生きるときに謎の領域に吸い込まれていく自己崩壊と恍惚があるのみ。
人間の死と誕生(老人と赤ん坊)はたぶん、一つの比喩であると思う。
それが比喩であるような、奥深い謎の領域があるのだ。
だからこそ人は誕生と死にこれほどまでに動揺する。

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