13 2017

ニジンスキーのカラダ

ニジンスキーについては何回か書いた。
私にとって気になるダンサーは、彼と大野一雄、のふたりだけかもしれないと思う。

ニジンスキーの体は写真でしか見ることは出来ないけど、
当時の他のダンサーの写真とくらべても、その違いは歴然としている。
私流に言うと「分裂病の身体」だ。
分裂病の身体には深淵があり、人間としての最後の一線を越えてしまっている。
人間が解体している。
大野一雄の身体にはそれを感じたことはないけど、別の意味ですごい。

ニジンスキーは筋肉質で、有名な太ももの筋肉を見るとわかるけど、
体の中の力のベクトルがバラバラの方向を向いていて、
それを無理矢理にひとつにまとめあげているために、
体がブロンズ像のような重い塊になっている。
彼がまだ若かったことを思うと、時間をかけて獲得した身体ではなく、
若さの力でねじ伏せた身体なのだ。
だから彼が発狂しなかったとしても、そのダンサー人生は短命であっただろう。
彼が舞台を務めたあとは、まるでボクシングの試合後のように荒い息で、
立っていられないほど消耗しきっていたと言う。

私はずっと、ニジンスキーの身体が気になっていた。
天才だからすごい、ということだけでなく。
彼の身体の存在感は、その後のバレエ史上に現れたどんな天才をも凌駕している。
と言うか、ニジンスキーの体はそもそもバレエではない。
西洋のなかの異物だ。

アジア圏でのすぐれた舞踊家には、たぶん、ニジンスキーのような深淵はない。
少なくとも私は見たことがない。
それはたぶん、アジア圏の伝統世界の舞踊家には、彼を支える伝統や共同体があるから、
深淵を見出す必要はなかった、ということだろう。
そこまで自分を追い詰める必要がない。
そして伝統でなく創作舞踊の世界には、最初から身体性は希薄だ。
西洋の後を追いかけているだけだから。
他人の褌で相撲をとっているうちは、深淵など現れようもない。

そう考えると、ニジンスキーの身体の深淵はヨーロッパ特有のものなのかも知れない。
深淵と言えば、ハンス・ベルメールの人形にはそれがある。
彼の人形は「認識」の世界のものだ。
彼以外の手になる人形にはそれがない。
日本の球体関節人形は工芸品であり「認識」はない。

分裂病の身体とは「認識の身体」ということになるのかな。
そして身体とは究極、認識のもんだいなのか。
ニジンスキーもハンス・ベルメールも、その認識のありようには安定感がない。
ヨーロッパにおける認識の伝統の頂点に位置して、しかも頂点が砕けてしまった感じだ。
ニジンスキーもベルメールも、言説世界で閉じていない、
身体と人形という具体性の表現者だ。
認識とは、最後には具体性の問題になるのではないかと思う。

日本の身体でも金春禅竹には深淵があったのかも、と思うことがあるけど、
それはここでは触れないでおく。私の手に余る。

ニジンスキーの身体の深淵が気になり「すごい」と思いながらも、違和感があった。
それは彼の体の「重さ」だ。
現代では重い身体には違和感ある。
現代は軽くて「浮いている」身体が求められていると思う。
この場合の「軽い」「浮く」とは悪い意味でなく、武術で言う浮身のようなものだ。
重力と正しく関係を持つことによって「浮く」体。
一度土地から離れることによって新たに土地と結ばれる体。
宇宙に出た人類が、地球に帰還して、再び重力を見出すような。
他者として故郷を見出すような。

これは単なる思いつきではなく、ひとつの思想であると思う。

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