13 2017

若い人

舞踏は西洋ダンスと較べると「老い」の舞踊、というところがある。
それは東洋の伝統的な価値観でもある。
日本では舞の究極は「翁」の姿に集約される、という世界観がある。
現代では身体表現というと、どうしても西洋の舞台表現の文脈の力が圧倒的なので、
若さが主体であり、そのことに対置するので、ますます老いの舞踊、を強調せざるを得なくなる。
正確に言うと、たぶん、「老い」の舞踊というよりは「成熟」ということなのだろうけど。

私の稽古場も中年の人が多い。
若い人と中高年とが並んで踊ると、違いは歴然で、
中高年は身体のなかに人生の蓄積があり、たくさんのニュアンスを持っている。
体は歳をとればとるほど面白くなるのは確かなようだ。
若い人の体は、どんなに頭がよかろうと才能があろうと、中身はない。
まるで中空の青竹のようだ。

でも最近は若い人も稽古に来るので、私も考えが変わってきた。
若い人は中身はないけど、時代を敏感に感じとっていて危機意識が強い。
水を求める、喉が渇いた野生動物のようにまっすぐでキラキラギラギラしている。
若い人の身体は、もちろん人によるのだけど、少なくとも舞踏の稽古に来るような人は、
生きるのがつらくてたまらない人ばかりだ。
だからなのか、その身体は、時代を映す澄み切った水面か鏡のようだ。
それは単なる筋肉や皮膚の若さではない。
見ていて胸に迫る張りつめた美しさがある。
それは中高年にはないものだ。

どちらがいいとかそういうことでなく。
私の考えている舞踏は、多分に神秘主義的傾向があるので、
老いも若きも共に身体に向き合えるのかもしれない。
広範な年齢層の人がいる場所って、豊かでいいなと思う。
もっと若い人も来て欲しいし、70代80代の人も来て欲しい、なんて思う。
お互いに自分にないものを発見して、
身体というひとつのレンズを共有して、せせこましい世代対立を吹き飛ばしたいものだ。

おそらくは舞踊の究極とは、
年齢も性別も社会的役割も越えていくものだろう。
それは透明な存在であり、生成のダイナミズムであり、宇宙性であり、
身体ほんらいの豊穣な祝祭であるのだろう。

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