13 2017

聖痕と擬態

聖痕という現象がある。
もともとはキリスト教の文脈で語られる現象のようで、
キリストが磔刑になった時に、手の平やその他の部位に出来たのと同じ傷が、
熱心な信者の体にも現れるというもの。
スティグマともいうけど、この言い方の場合は、
もっと一般に犯罪者や奴隷に烙印されたタトゥをも意味するようだ。

聖痕は、熱烈な信徒の手の平に穴があいて出血したりするもので、
これは歴史的にかなりの例があり、その原因は不明ということらしい。
作り話だという人も多いけど、全部がウソということもなさそう。
キリスト教において現れるのはなぜか、他の宗教には現れにくいのはなぜか。
これも面白いテーマだと思う。

聖痕はウソがホントか。
もちろん作り話の場合もあるだろうけど、私は実際にもあるのだと思っている。
それは身体の内部と外部という私のテーマにもつながる。

私の稽古でミミクリダンスというのがある。
ミミクリ(擬態)とは昆虫が周囲の環境にあわせて色や形を変えるもので、
木の葉の上では木の葉そっくりになり、見分けがつかなくなる、という誰でも知っている現象だ。
敵から見を守るためと言われている。

ミミクリダンスとは例えば、木の幹に抱きついて軽い変性意識に入っていくことで、
木と一体化する、というようなことをする。
木でなくても、壁とか床とか石とか、なんでもいい。
自我意識を希薄にしていくことで、周囲の環境に溶け込んでいく、
という、私の稽古ではふつうのことだ。
もちろん完全に出来るわけじゃない。
ちんぷんかんぷんで「これで出来ていることになるのかな?」という曖昧な状態から、
かなり深い状態まで段階はある。
うまく行けばほんとに事物に溶けてしまい、ものすごく気持いい。
エクスタシーと言ってもいい。
外から見ていても、その人が「溶けている」のがわかる。
人間の輪郭が消えてしまう。

ある時、室内でこの稽古をしていて、ある人が壁の前で動いていて、
なぜかゴキブリにそっくりになったことがある。
壁にへばりついていたということもあって。
もちろん見た目がゴキブリに変身するというような、CGみたいなことではない。
そこにいるのは人間ではあるのだけど、でもゴキブリだと感じさせる。
気配が似ていると言えばいいのだろうか・・ ゴキブリオーラが出ている。

稽古が終わってから感想を聞くと、
私だけでなく複数の人が「◯◯さんはゴキブリになっていたよ!」と言う。
本人に聞くと「昨晩、部屋にいたゴキブリのことを、稽古中ずっと考えていた」と言う。
他愛もないエピソードだけど、私はこういうことが忘れられないたちだ。

これは簡単に言うと、
自我意識が薄くなった状態でイメージを強く持つ、という内的行為が、
外的にも実現する、ということだと思う。
聖痕とはこういう現象ではないかと、私は思っている。
本来イメージとはそれくらいの力がある。
身体の内部の力=身体の外部的表出 という現象がまれに起こる。
舞踏は本来はそういうところに成立する。
実際には完全には出来ないが、それに近づこうとしている。

昆虫の擬態に話を戻すと。
昆虫は身を守るために周囲の環境に形を変えると言うけど、
昆虫は自分を外から見て、いろいろと操作しているわけじゃない。
人間がCGを操作して調整するような行為とはまるで別のものだ。
ただそのものの上に乗っかるだけで、どうしてそのものの色や形になれるのか。
自分が木の葉そっくりになったことをどうやって認識するのか。
自分を外から見ることはできないのは、すべての生物に共通している。
生物はまず第一には、内的に存在するしかない。

私はこれは、稽古の時に、ある人がゴキブリを強くイメージした時に、
ほんとにゴキブリに似てしまったのと同じ現象ではないかと思う。
もちろん証明など出来ないが。
木の葉の上に乗った虫は、全身で強く木の葉の色や形を感じとっているのだろう。
自分を失うほど、あまりにも緑にまみれたので緑に染まっていく。
色だけでなく匂いや質感や波動に自身を投げ出しているうちに、そのものになっていく。

同じように「キリストの犠牲」を強く感じた人に聖痕が現れる。
内部が外在化するという、
たぶん生命体にとっての普遍的な現象ではないかと思う。
もともとは行為とはそういうものだったのではないか。
人間は内部というものを、道具を使って代理的に外在化するという文化文明行為を、
積み重ねてきたので、もともとの内部の力を見失ったのではないか。
宗教的情熱は時に異様なエネルギーを発揮するから、
例外的にこのようなことが起こるのではないか。

外界と関わるという行為が、もともとは全身的で内的なものだったのが(アニミズム)、
例えば、その一部を「視覚として見る」という行為に分断し特化して、
やがてはカメラによって、自分の目の代理をさせていく、といったふうに変化してきた。

内部にある無形の情報を、部分に分けて(五感)、道具の力で肥大させてきた。
内部にある音楽を楽器を使って外的に代理行為させて、増殖させて、音楽を生み出した。
それが悪いというのではなく、
(実際そのことによって世界は豊穣にもなってきた)
そのことによって本来の内部を無力化して来たということ。

聖痕とか昆虫の擬態とかは、もともと多くの生命体にとって可能な力だったのだと、
そう思えてならない。
稽古ではそれを、ささやかに取り戻そうとしている。
たいしたことはできないけど、ささやかでいいのだと思う。
何事も極端におこなうと間違える。
現代社会に市民としてふつうに生きている、という事実ー歴史性を見失う。

大切なのは、それが気持ちいい。エクスタシーだということだ。
この気持良さは、現代によく見られる、ヒステリックな刺激に対する反応とは違う。
全身的な陶酔。ムリがなく、
陶酔よ醒めないでとしがみつくようなものでもなく、
すんなりと体に浸透してくる。
ちょうどムリなく深く息が出来たときのような、
いい感じなのだ。
身体はまだこういう知恵を残していてくれた、と思う。

昆虫が擬態をしている時は、どうやらエクスタシー状態にあるらしい。
と何か科学系の本で読んだけど、頷ける。
だって稽古でミミクリしている時はエクスタシーだからね。
きっと昆虫だってそうなんだろう。
自分以外のものになりきるのは気持いいものなんだ。

擬態の面白い画像はたくさんあるけど、ここに載せられなかったので

 → 擬態するフクロウ

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