08 2017

死の体験

ふと思った。
死ぬ時は苦しいのだろうとか寂しいのだろうとか、人は勝手に思っているけど、
本当にそうなのだろうか。
人は死というものを、あまりにも外からだけ見すぎるのではないか。

齢をとったので自分の死について、想念ではなく具体的に思うことが多くなった。
自分の死の光景を外側から見て、看取ってくれる人がいないのじゃないかとか、
痛みで苦しむのじゃないかとか、そういうことより、内部の体験のほうに興味がある。
別に家族に囲まれて死にたいとか、そういうのはない。
私が死ぬ時には、私のまわりには家族も友人もいないだろうし。
ただあまり手間がかかる死に方はしたくない、という程度。

嘘かほんとかわからないけど、ガンで死ぬのは苦しくないということを何かで読んだ。
苦しくなる(痛い)のはいろんな治療をするからだと。
ほっておけば苦しくないと言うけど、それは私にはわからないことだけど、
あまり治療しすぎないで死にたいとは思う。

私は身体に取り組んでいるけど治療方面ではないので確信はない。でも、
あまり医療的にいじくりすぎなければ、そんなに苦しくないのではないか、という予感はしている。
身体はほんらいそういうふうに出来ている気がする。
楽天的すぎるかな。
多少の苦しみは、一種の儀礼のようなもので避けられないのかもしれず、
それくらいはあってもいい気はする。

死とか病はなぜあるのか、と考える時がある。
苦しまないで死ぬというプログラムがあってもいいのにと。
もしかすると人間が勝手にそういうプログラムを作ってしまったのかと思うことがある。
そういうものだと決めつけているから、そういうものとして死ぬのではないかと。
死生観がそのまま死の苦痛を作っているということはないのだろうか。
死=悲惨 というような。

私はなぜか若い時から、死=エクスタシー と思えてならなかった。
生涯一度しか体験できない、猛烈な恍惚だと。
それをわざわざ現代の死生観は汚しているのではないかと。

若さに対する信仰もそれと繋がっている。
死が悲惨である以上、齢をとることは悲惨に決まっている。
今では若い人が毎年ひとつづつ齢をとることに怯えている。
20才30才で「もう齢だ」とか言うのは、生の萎縮としか思えない。
異常事態だと思う。

野垂れ死になんて、外からみたら悲惨そのものだろう。
だけどその人の内部は違うかもしれないと思う。
道端でのたれ死ぬ時、彼は天の光を浴びて恍惚としているのかもしれない。
こんなこと言うと「お前バカか」と言われそうだけど。
野垂れ死にする本人が自分を不幸と思っていれば、不幸なのかも知れないが。

私の言いたいことは、
外から見た死と、死の内的体験は、別の物じゃないかということだ。
内部というのは無限の領域だから、
外からみたのとはまったく別のものが、死の内部にはあるのではないかと。
こういうことを思うようになったのは最近だ。
齢とるに従って、なにかが見えるようになった気がしないでもない。
思いがけない光景が。
外界という枠がはずれて、内部だけになっていくのが死なのかなと思う。
死ぬ時に内的存在にならない人はいない。

外部は人を殺すが、内部は人を生かす。 byミヒャエル・エンデ。

どうしてこういう一般的でないことを思うのかというと、
それは私が内的な踊りをしているからではないか。
内的な身体と取り組んでいると、一般とはかなりズレた世界観を持つようになる。
だっていつも身体の内部を感じながら生活しているから。
ふつうは外の世界を人は世界と思っているのだから。
私は外の世界も当然生きているけど、それと同じくらい内部を生きている。

死の内的体験。
それはたぶんふつうに考えられている死とは、そうとう違う。

追記。
土方巽は臨終の直前、弟子をひとりひとりを個別に病室に呼んで最後の会話をして、
全員と話し終わってからすっと亡くなったとか。

0 Comments

Leave a comment