16 2017

ポリバケツに入れた水の中に10分かけて手を入れる、という稽古をすることがある。
この稽古は時々する他愛もないものだ。
反応は人それぞれでとても面白い。
いつだったか、この稽古をした後で感想を訊いてみたら、生徒さん(塾生)は、
「水の中に手を入れた瞬間、世界が止まった。」と言っていた。
一瞬あたりが真っ白になったそうだ。
ドキドキした、びっくりしたと。
この時、小さな生まれ直しが起こったのだと、私は思う。

水は儀礼にしばしば使われる。
キリストの血とみなしてワインを飲むとか三三九度とか、
ヤクザの固めの盃とか、禊とか、洗礼式とか、二月堂のお水取りとか。
そういう場合、水は何かの象徴であるということになっている。

私は、最高の踊りとは元素になることだ思っている。
風とか水とか火とか・・ 鉱物や天空や聖獣になるなども、これに近い。
踊りの場合は、それはかならずしも象徴だけでなく、実感としてある。
というか実感でないと意味がないしつまらない。
象徴という解釈で事足りてしまうのは、いつも半端だなと思っている。
何かにつけ象徴とかイメージとか言って、言説で完結してしまうのは不満だ。

もちろん踊り手だって完璧ではなく、かなり曖昧だったり未熟だったりする。
だけど果てしなく実感として近づいていこうとする。
ほんとに風になってしまう時もあれば、
人の踊りを見て、これは龍のようだと感じることもある。
それは内部からそうなるので、龍の真似をすることではない。

水もまた単なる象徴ではなく、
具体的に身体に働きかける力がある。
たとえポリバケツの中の水だって、その分子は全くの水だ。
微粒子状になった身体には微粒子としての水が働きかける。
よく言われることだけど、
葉の上の朝露の一滴には宇宙が映っているのだ。

このようにして元素を見出していくのは楽しい。
象徴って、もともとそういうものだったのだと思う。
それがいつの間にか言葉の上だけの、中身からっぽのものになってしまっている。
ほんとに水には浄化の力があるし、火には蕩尽と新生の力がある。
元素に触れるときには私達の体もまた元素にちかづくのだ。

今は火の力や水の力と、ダイレクトに対面することは少なくなった。
焚き火すら禁止されているのだから。
水は水道の蛇口をひねれば出てくる便利なものにすぎない。
でも元素の力を実感する時、私達は元素と同じように力強く燃え上がり、
清らかになるのだと思う。
そういう元素や生ほんらいの力を、わずかでも稽古を通して実感していきたい。
日常生活はあいまいにぬるく過ぎていくものだけど、
稽古は立ち止まらせてくれるし、
なにしろ頭でシンボルとかなんとか解釈して終わりみたいな、
無力感から少しでも抜け出せるのがいい。


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