26 2017

着るということ(1)

私の稽古では、日常のありきたりの動きを深めていく、ということをやっている。
もっともありきたりの行為として、食べる、着る、というのがあり、
ここでは「着る」ということについて考えてみる。

食べるというのは人間でなくてもするが、「着る」のは人間だけ。
なぜなのだろう。これはとても大きなテーマだ。
人間は身体にどのように対処してきたか。
「着る」という以前に身体を加工するという行為があり、たとえばタトゥーとかがそれだ。
人間にとって身体は自然ではなく、何かしら手を加えなくてはならないものだ、というのが肝心。

人間が自意識を持ったとき、すなわち世界と自己が分離した時、
まず初めに、わけのわからないしろものとしてあったのが、身体ではなかったか。
動物においては身体=自己=世界であるのに、
人間にとって世界は自己意識と切り離され、身体は腐ったり死んだりする、思うようにならない他者となった。
身体を加工するという行為が、世界(自然)と自己を結ぶための位相変換として、必要になった。
なぜ神はそのようなものとして人間を進化させたのかは、ここでは問わないが。

生物は生まれて死ぬ。
動物はそのことを否定も肯定もしない。
でも人間は、死ぬという受け入れがたい不合理に対処しなくてはならなくなった。
身体を意識するとは、死を意識することでもある。
思念想念観念は永遠の領域に飛翔することができるが、身体はいずれは腐り死ぬものとして、
人間をいつまでも地上に縛りつける。

人がこの思うようにならない身体を、いかに自己の生のなかに定位していくか。
言葉を変えれば、いかに新たに自然と関係を結んでいくか。
文化として、身体を、生と死を、組み込んでいくか。
それは人間にとって至上命令だっただろう。

まずは身体にじかに加工を加えて、メビウスの輪を介在させ、自然と人間を関係づける必要があった。
タトゥーなどによって。
そののち、「着る」という行為が生まれた。

人間がその歴史のなかで、数限りなく繰り返してきた「着る」という行為。
それは最初は世界の再創造、といってもいいくらいの変革であったろう。
着るという行為の無限の繰り返しが人にもたらす、思いの機微の集積は、
私からみると霊性そのもののように深い。
抽象論議の霊性ではなく、あまりにも単純な具体性として。

実際に多くの儀礼において、食べることと着ることがメインとして組み込まれている。
着たり脱いだりすることに死と再生を象徴させ、
水を口にふくんだり、直会として神と食事をわかち合ったり。

そのような行為。食べるとか着るとかいう行為のなかに霊性を求めたい。
動物のように人が美しくなるためには、日常の動きこそが意味にみちて美しくなければウソだろう。
人は生まれて死ぬまで日常の行為を繰り返す。
それが無意味であっては、どのような身体表現も虚しい。

そんなことを考えても、実際問題として何ができるのか、どんな成果が出せるのか、なんの保証もなかった。
形としての儀礼に本来あったはずの、内的強度をこそ問題にしていた。
そうでなければ伝統芸能や既存の儀礼だけでじゅうぶんだったはず。
私にとって儀礼とは、血の匂いのするものであり、形だけの味の薄いものではなかったのだ。
何かを愛するとはそういうことではないか。


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