08 2017

奇跡

舞踏を始めた頃、稽古場の主宰者の舞踏家が、
「玉三郎がいくらみごとな踊りをしても、そこに奇跡は起こらない。でも舞踏では奇跡が起こることがある」と言っていた。
当時は意味がよくわからなかったけど、今はわかる。
でもそれを説明するのは難しい。下手するとオカルトになってしまう。
あるいはSFか少女マンガのように語るしかない。
というか、科学や合理主義がとりこぼしてきたものを、SFや少女マンガが拾いあげてきたのかもしれない。

踊るという行為には、名人への道とは別の道がある。
もっとはるけき道、広大な領域が。

舞踏家は時として大げさなものの言い方をする。
それで、傲慢とか、思い込みだけで客観性がないとか思われてしまう。
私は客観性をもつように、すごく気をつかって文章を書くように努力しているけど、
どうしてもうまく言えないこともある。
奇跡という言葉もそれで、説明のしようがない。
多少ヘンな人と思われても、ぎりぎりのところでオカルトにならないように、
奇跡という言葉を使ったりしている。

奇跡とか神秘とか神とか、私はしばしば言う。
ほんとはこういう言葉を躊躇なく使えるほうがふつうだと思っている。
もともとオカルトじゃないんだから。
「身体」が蔑ろになっていることと、こういう言葉がオカルトになりがちなのとは通底している。
なんでも合理的科学的に割り切ろうとすると「神」なんて言えなくなってしまう。
身体を科学的合理的にわりきろうとすれば、そこに神など住めるわけがない。

おまけにたいていの場合、ダンサーや舞踏家は言語化が苦手だから、
言説で終始している哲学や認識の世界と会話が成立しにくい。
認識世界では神とか奇跡とかの言葉は、そうそう簡単には使えないだろう。
使おうとすれば、その言い訳=前提を30ページくらい書いてから、ということになる。
舞踏家はそんな悠長なことはしていられない。
書くことは専門ではないし、そんな時間があったら稽古したり衣裳を作ったりしていたい。

奇跡というと、聖書に出てくるイエスがおこなった治療とか、
ジャンヌ・ダルクの召命とか、
シャーマンが雨を降らせたとか、
そういうはっきりとイメージできることがすぐに浮かぶ。
たぶんああいう奇跡は、実際に起こった地味で見えにくいものを、
歴史過程がドラマチックにわかりやすく編集し直したのだろう。と私は思う。
人間の歴史のなかで奇跡は実際に起こってきたのだと思う。
でも実際に起こっていた時には、見えにくかったのではないか。
ジャンヌ・ダルクの召命の奇跡は、内的で見えにくいものだったのだろうな。

今だってイエスのように治癒力を持っている人はいる。
でもそれをドラマに仕立てる歴史的条件がないから、知る人ぞ知るの世界でしかない。
たぶんたくさんの奇跡が埋もれて消えていっている。

舞踏の奇跡もそれだ。
私は奇跡を体験しているけど、それは、
例えば稽古を共にし続けるという条件がないと、人の目には見えない。
経験したとしても、そこに何が起こっているのかを認識できなければ、存在しないも同じだ。
それは私の記憶のなかに封じ込められている。

小さな奇跡はおこり続け、人はそれを見逃しつづける。
そして奇跡に大小はなく、小さいからと言って大きいものに劣るわけではない。
奇跡は生まれてはすぐに消えていくものなので、それを定着させる方法はない。
私は奇跡の感触の素晴らしさが忘れがたいから、舞踏を続けている。

あえて示唆するとすれば、それは、

 時空のたわみ。異界の侵入。
 無病の世界。
 身体と空間のn次元化。
 外界と自己との一体化。
 原初の音を聴くこと。
 先人=死者との重なり。  エトセトラ。

そして、これらは瞬間の中にしか存在ない。
証明も定着も出来ない。
それを指し示す指先が見えるだけ。

 ・・・ 結局、奇跡の具体的内容の説明は出来なかった(笑)
じつは十全にではないけど、奇跡を語る言葉はないわけではない。
でもとても手間がかかるし、誤解されやすいので語らないほうがいいと思う。

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