07 2017

わたしの踊りの欲望

舞踏を始めた頃は、ただ踊れるようになりたいとそればかりを思い、でも、
途中から、じぶんが踊ることに何を求めているのかが、気になってならなかった。
舞台人としての成功ではない。
名人になりたいとか、そういうこととは違う。
ただ踊ることが楽しければいいと、そういうことでもない。
踊るという行為に、人間が人間であるための、根源的な何かを求めるようになっていった。
そしてそれが「儀礼」という言葉に集約されるようになった。
人間は、この虚無のなかに「有」としての自らの存在を打ち立て、
たえずそれを更新していくことでしか、生きることが可能にならないと思えた。
それはわたしが若い頃に、この現実のなかに深淵-底なしを見出し、
そのことで、息の根を止められるほど苦しんだことから来る欲望だった。
人は生きなくてはならない。なんの根拠もないところで。
そしてわけもわからず死んでいく。

動物と決別して自意識をもった呪われた存在である人間が、
たえず自己の存在を打ち立て続ける、その危うい綱渡りを、
もっとも深いところで成立させる、「儀礼」の、その中心に「身体」がある。
と思うようになった。

人類学や民俗学などの本にあるように、
それを言説で終始させることでは満足できなかった。
いくら大切な知識がふえても、私たちの生き難さは少しもよくならない。
こんな知をいつまでも続けて、自分の足元はお留守のままなのか、と義憤すらおぼえた。
また書物にある儀礼には、身体に対する着目がほとんどない。
「身体で」やるもの、という程度の着目であり、
身体そのものへの深い洞察がない。
それはかれらが研究している儀礼が、現代社会から遠いものであり、
身体に着目する必要のなかった時代や地域のものだからではないか。
つまり今ほどには身体が失われていなかった時代と地域の。
共同体という身体があった時代の。

儀礼について語り出すと際限がないので、ここでは最も重要な要をシンプルに取り出したい。
儀礼を成立させる根本は、他界の出現であると思う。
そのような儀礼は、かっては共同体に支えられ、共同体にアイデンティティを与えるものだった。
だから沖縄のイザイホーのように、共同体をあげて行われ、
踊り手はプロでもないし、踊り手と観客という二分化もない。
観客なんてものは存在しない。全員が儀礼の担い手だ。
生きていくために欠かせないものであって、ただ踊って楽しむというものでもない。

私の欲望とは、
かつて儀礼が持っていた深い意味合いを、現代において再びあらたに獲得することだ。
それが不可能であると頭ではわかっている。
だって共同体がないんだから。
私たちは浮遊する、生の根拠を持たない、都市生活者だ。
個人の努力や才能でどうにか出来るようなものではない。
それでも、どうしてもそれが欲しいと、諦めることが出来ない、
その欲望の深さに喘いだ。

そして今、もちろん結論は出てはいないのだが、
納得できるというか、ある構えみたいなものが持てるようになった。
それを語るのは大変すぎて途方にくれるので、今ここでは書かないけど(息が切れた)、
次回のブログ「個人であるということ(2)」で、ほんの少し触れてみたい。

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