25 2017

床と翼

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床=大地を実感したいと思いつづけてきた。
踊り手にとって床が大切なのは言うまでもなく、今まででもそれなりに重要性は感じてきた。
いちにち24時間、足の裏と床の接面を意識している。
それでも何かが足りないとも思ってきた。
大地と身体のかかわりの、その深いありように届いていないという思い。
言葉と実感のあいだにあるズレが気になっていた。
こんなものじゃないはずだ。
届いていない、と。
もっといきいきとした、「これだ」と感じられるものであるはずだ、と。
でもこういうことは考えれば考えるほど観念的になっていく。
どうしたらそこに届くのか、方法がわからない。

ただ基礎をコツコツとやるしかないと、重力と身体の関係を追い求めていたら、
ある時、ふと、「これだ」という瞬間がやってきた。
今までと地面の感じが違う。
それをどう言葉にしていいのかわからない。
屋外で稽古していて、自分の身体と外の空気と、
地面と、鳥や車の音と、
そういうものが溶け合って、足の下の大地が突然、
姿を変えた。距離感がない。

少しづつしゃがんで行くと地面にすいこまれるように体が低くなっていく。
大地の下に生き物がいるぞ。そいつが私を静かに引っ張っている。
両の手のひらを地面に当てると、すっと吸い込まれ、ぴたっと張りつく。
めちゃくちゃ気持がいい。
わたしの体は地面の下にはいっていく。
「ああ、こういうことだったのか」と思う。
ほんとにこういうことがあるのだと思う。

大地は私の下にあるのではなく、全体に広がっていた。
高いものも低いものも、同じように自分のまわりに揺れ動いていた。

それはあまりにも微妙な感覚だった。
それを見逃すことも失われることも、おそらくは簡単なんだろう。
それを伝える方法もないのだろう。
ただ私ひとりの秘密の儀式のような時間だった。

「書き記されざる大地の法」という言葉が浮かぶ。
これはギリシャ悲劇を論じたヘルダーリンの言葉だ。
地上にある国家や社会の法、に対置して、地面の下の世界をこう呼んだ。

大地の下は、死者たちが集う歴史の場所だ。
時間が層をなして厚い空間になっている。
私たちは日々、その歴史=死者たちを踏みながら生きている。
そのことを実感したかった。
それに近づいて行くことが嬉しかった。
地味な稽古の積み重ねで、そこに行けるとわかったことが大発見だった。
死者たちは(おかしな言い方だけど)生きていた。

おそらくはヘルダーリンだって実感していたわけではないだろう。
でも彼はそこに行こうとしていた。
彼は「古代ギリシャから東方に遡ろう」としたのだ。

わたしは死者という言葉を、ただの言説に終始させることに我慢がならなかった。
それは具体的な身体のものでなくてはならなかった。
大地の下にはほんとに死者たちが眠っているのだ。
それはただの言葉ではなかった。わたしには。

そして今、大地とその下の世界は、わたしの近くに来た。
かつて全ての人々が生きることに命がけだった頃の身体に、少しは近づいたのだなと思う。
その時代の人々にとって、大地はただの言葉ではなかった。
死者たちは死んではいなかった。死という存在だった。
それは「存在」だった。生者と同じように。
死者たちこそが「存在」であり、生者はその投影なのかも知れず。

そして、アスファルトにおおわれた大地の上で生きていく都市生活者として、
あらたな大地を生み出していくのだと(上書き?)、
わたしは思った。
わたしは死者たちの中にいて、
死者たちはわたしの中にいる。


  白銀のアスファルトの大地の下に死者たちが眠る。
  かかとに風の渦を巻き起こしつつ地の上を歩き、
  その者たちの骨(こつ)をあつめよ。



そしてこの延長におそらくは「人間の翼」」の可能性がある。
人間の体のなかには翼が畳まれて眠っている。。



※写真は11月の公演場所であるギャラリー南製作所の床 
 (撮影 LINA)


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