05 2017

野辺送り

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身体は土地ともにあるのは当たり前だけど、普段はそれを忘れている。
民俗芸能が土地と切り離せないかたちで今も行われ、
夜に火を焚くなどして、華美な装束を身につけて、
プロではないふだんは別の生業についている、そこいらの誰それさん達が、
歌い踊り、酒を飲み。自分の人生をそこで燃やす。
というようなあり方が羨ましい。
賑やかなものや野卑なものや神秘的なものや美しいものなどがあり。
自分たちが日々生きている土地の中で行われる祭りは、エロスそのものに思える。
女性のヌード写真など、それに較べたら貧弱なエロスの代用品もいいところだ。

民俗芸能を見に行けば感動もするだろうけど、見るというその行為は、
私には何かとても寂しい、というか辛い。
だってそれは自分たちのものではなく、私はどこまでも鑑賞するだけだ。
鑑賞って、あまりにも祭りの本質からは遠いありようではないか。
祭りの本質は「渦中そのもの」であることだから。
都市生活者は地方の豊かな祭りを見るだけで、自分たちの祭りを持たない。
このことにこそ驚くへきだと思うよ。
祭りがないのによく生きているよなと。

都市生活者の祭りは、地域の盆踊りとかディズニーランドにいくとか、
評判の映画を見たりイベントやコンサートに行ったり、そういうものなのだろう。
そこに祭りの「渦中の生存」てのはない。
そこには異界の息吹もない。
極端な言い方をすれば、浮かれているだけ。

人生の節目の行為、祭りとか葬儀とか、
そういうものは本来、土地とともにあり、他者(共同体)と共にあるものだ。
都市生活者の葬儀は葬儀屋さんが取り仕切る。
それもまた寂しいことである。
以前わたしは死者を悼むためには、死者の亡骸(なきがら)と、
死者を見送る者たちの、なんらかの身体的行為=パフォーマンスが必要だと、ある文章で書いた。
人にとって痛切な生存の行為は、かならず「自分の身体でどうにかする」ものであると思う。
祭りは自分の身体でしなれければ祭りではない。

同じように死者を送るには、自分の身体で「どうにかする」ので、
それをしないとやり遂げた感じはしないし、・・残尿感がある(笑)
自分の身体でする、という行為をしないで代理行為で済ませる、
ということが積み重なると、
人は虚無に飲み込まれる、とわたしは思う。

ふと「野辺送り」を思い浮かべた。
東京生まれのわたしには野辺送りの経験はない。
ただなんとなく映像としてどこかで見たものとして脳裏にある。
最近その野辺送りという行為にある人間の知恵に感心する。
死者を送るのに、こんなに完成された知恵ある行為はないと思う。

まずそこには亡骸を共同体の成員で運び、旗を風になびかせ、
死者が生前生活していた土地を、ぞろぞろとゆるゆると練り歩く。
途中米を撒くとかその他の行為をする。
死者の生前の生活を生者が反復する、という演劇的行為。
死者が生前歩いた道を歩き、死者が生前つくっていた米を大地に撒く。
そのことで死者の生は日常を抜け出て聖化される。
この歩くという行為で、死者と残された生存者の魂が結ばれ、
昨日までそこにいた人が今はいない、という受け入れがたい事実を受け入れていく。
このような行為は一人では本来できない。
残された者たちが共にわかちあわなければ、愛する者の死をどうして受け入れられようか。
死は共同のもの、集合のものである。
死者の魂が生者たちを結びつける。生者たちを聖化する。
生者たちは死者を共有し、やがては自分もそこに帰っていく死者たちの世界を、
受け入れていく。
死の世界が生の世界を包んでいることを知る。

歩くという行為のなかで、生と死はぐるぐるとまわる。

野辺送りは自分の身体でする、共同でする。
こういう行為こそが生きたパフォーマンスだと思う。
都市生活者であるアーチストのするパフォーマンスの、なんと貧しいことよ。
即興で踊りました、はいわたしは自由です。そんなことあるものか。
どこが自由だ。ひとりよがりではないか。
そしてそのひとりよがりを個性と称する。

・・それでも私は都市生活者として、土地もなく共同体もなく、
今日も明日も稽古をするのだ。
これってなんなんだ? 虚しくはないのか。
それでも私はそれをする。
祭りもないし、死者を送る方法も形もない。
それでも私は今日も明日も稽古するのだ。

今はもう野辺送りをする風習も少ないことだろう。
地球の隅々まで都市化されつつある現在、
どうしたら死と再生の祭りができるのか、
どうしたら死者を悼み見送ることができるのか。
死の豊かさを実感することが出来るのか。
何もできないとわかっていながら、それでも考えてしまうのです。
身体に何が出来るのかと。



※写真はイベント「東京巡礼」の時のもの。
 これは私たちのささやかな盆踊りでした。

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