23 2017

 純粋感情

存在は腰に。天地は背骨に。感情は胸に。宿る。
そんなことを思った。

ボデイワーク、武術、スポーツと、踊りとは、何か違うのかと時折考える。
いろんな言い方ができるだろうけど、ここでは、
「踊りには胸が必要だ」と考えてみる。

武術やスポーツの場合いちおう「感情」は必要ないし、ないほうがいいとさえ言える。
モチベーションの部分では必要だけど、実践の最中は必要ない。
人間的な感情などなく冷徹であるほうがいい。
武術でもボデイワークでも腰やハラや軸の大切さは語られるけど、
胸の大切さはあまり語られないように思う。

私は舞踏を始めたころ、踊る契機として感情は使わないと決めていた。
人間らしい感情を契機にするのは底が浅いと思っていた。
身体と取り組むからには、身体運用の職人になりたかったのだ。
職人になる以前に感情を使うことは、身体に対して失礼だと思った。
感情優先で身体そのものを無視するのは本末転倒と思った。
最上さんの踊りはクールだとか無機質だとか言われたりした。
クラシックバレエに似ていると言われたりして、ほんとにびっくり。

実際にはそんなに身体運用と感情をきれいに分けられるわけじゃないから、
誰だって微妙にまじってはいるけど程度問題。

あるていど身体運用の技術がつかめてきた頃、踊っている時に感情が溢れるようになった。
感情を踊りの契機にしているというより、
身体を動かすことによって、動きに感情が「乗る」ようになったようだ。
それは日常的な感情でもないし、わたし個人の喜怒哀楽でもなかった。
そしてこの感情が踊りを最終的に仕上げるのだ、ということに気がついてきた。
この気づきはとても大きな出来事だった。

いくら身体を正確に動かしても踊りとして魅力があるわけではない。
このあたりが武術系の人にはわかりにくいようだ。
知り合いのダンサーが、
「武術の人が踊りを見ると身体運用の話しかしないのでイライラする」と言っていた、
その違和感はこのあたりに原因がある。

いくら歌がうまくても聴いていてちっとも面白くない歌もあれば、
少しくらい下手くそでも引き込まれる歌もある。
表現を仕上げるのは、曰く言い難い総合的で不合理な力だ。
身体運用は必要条件ではあるけど充分条件ではない。

個人的でない感情とは何か。
わたしはそれを「純粋感情」と呼んでいる。
それはわたしの外部に、あるいはわたしの内部深く突き抜けて、地層のような深みから溢れる。
人類の歴史の中で蓄積された客観物のような感じだ。
それは時間と空間のなかに「私」より先にすでに「棲んでいる」
だからその時その時の自分の感情とは関係なく、
踊り出すと「外から」やってきて、わたしを通過してまた去っていく。
容れ物から水が溢れるようにわたしの身体の深奥から勝手にあふれて、わたしを支配して去っていく。
それは力強く純粋で輝いている。

踊りを決めるのはこの純粋感情だと思える。
これが仕上げに来ないと点睛を欠いてしまう。
そしてこの感情の玉座は、どうも「胸」らしいのだよね。
腰や軸は無機質だけど、胸は熱い。それは火だ。
胸に火がつかないと踊りにならない。
この異様な、胸の静かなる高なり。修羅か菩薩のよう。

人は風のように踊ることができるし、水のようにも踊れる。
(熟達者の場合だけど)
だけどその風や水は、外界にある風景のようなそれではない。

踊りの場合は「身体の内部」のできごとなのだ。
踊る人の固有の時空として顕現する。
だから風というイメージや水というイメージを後追いするのではない。
身体のなかに風が起こり水が溢れるのだ。
そしてそれは「熱い」できごとであり、胸を住処とする。
胸に棲み胸を破っていく。

感情とは、しずかな悲しみであったり、竜巻のようなはげしい渦であったりして、
とにかく、とても不合理なのだ。
それは時として踊り手を破壊しそうにもなる。
それを抑えて形にしていく。
それが踊りの技術であり、幾何学的に身体を使うことだけが技術ではない。
このことがなかなか人に理解されない。
踊りというとテクニックだと思われてしまって、そんなことばかり見ている人がいる。
やれキレがどうだとか腰がどうだとか足の使い方がどうだとか。

純粋感情が宿るためには、トランス=変性意識にはいっている必要がある。
そうでないとそこに現れる感情は個人的なものにすぎなくなる。
トランスにはいっている時、人は自分を越えていく。
そして人間の歴史の蓄積のなかで培われた純粋感情に「乗る」
わたしはわたしでなく、歴史上の誰それになったり、感情そのものになったり、
動物になったりするわけです。
おそらくはこれが演劇の原点でしょう。神話を生きるとはこういうことなのでしょう。
歴史の内部とはこういうことなのでしょう。
憑依とか変身とかは、こういうことなのでしょう。

純粋感情はマレビトとしてわたしを訪れるので、
つかの間わたしの胸を住処として全身を震わせ瞬く間に去っていくのです。
マレビトとは民俗学の書物のなかにだけあるのではありませぬよ。
あるいは伝統芸能の様式のなかにだけあるのではありませぬよ。
そしてそれは安定した形式や知識のことでなく、
燃えあがる火であり、
たえず更新しなければ消えていく、人としての闘いなのだと、
わたしは思います。

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